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 水の抵抗があるにもかかわらず、ものすごい力で吹き飛ばされた。あまりにも圧倒的な力の奔流に、ただの人間ごときではどうすることもできない。

 一方方向に暴力的な水流が発生し、メイラの身体はなすすべもなく木の葉のように翻弄された。

 いや、メイラだけではない。

 見た事のない色合いの魚や海藻、子供の頭ほどもある岩まで巻き込まれて吹き飛ばされていく。

 ぐ、と足首を掴まれる感覚がした。

 てっきり海藻でも巻き付いたのかと思ったのだが、ほとんど水流に塞がれた視界でかすかに捕えたのは黒い髪だった。

 下方向に強く引かれ、溺れる恐怖にもがこうとした四肢を、また別方向から伸びてきた腕でぎゅっと抱き込まれる。

 銀色の髪。

 はためく裾が、場違いにも美しいと感じる、長い丈のワンピースドレス。

 どうして、と考えるより先に、今にも散り散りになりそうだった意識が引き戻された。

 大きく見開いた目が、太陽の光を透かして輝く銀糸によって遮られる。

 ルシエラ。

 名前を呼ぼうとして、ぼごりと口から空気が抜けた。

 同時に、目まぐるしく身体が上を向いたり下を向いたりするので、これ以上目を開けていることが出来なくなった。

 なすすべもなく流されてどれぐらい経っただろうか。

 次に気づいた時にもまだ海の中にいた。

 しかし顔は海面から出ていて、大声で名前を呼ばれて頬を叩かれ、痛いと苦情の声を上げようとして咽せた。

「……あの島まで無事たどりつけたら見逃してあげるわ」

「ひでぇ化け猫にひっかかっちまった。とんだ疫病神だ」

 ぶつぶつと、文句を言うのは黒墨色の肌の男。

 うっすら目を開けると、近い場所にスカーの気づかわし気な顔があった。

 海水にぬれた髪が頬に掛かり、痩せた顔をなお一層細く見せ、まるで雨に濡れた憐れな野良犬のようだった。

 メイラの身体を後ろから抱きかかえているのは、銀色の髪の女。言わずものがなルシエラだ。

 上等なレースの袖で覆われた腕が顎下に回され、解けた長い髪が波に揺れている。

 うねる様な波だった。荒れているとまでは言えないが、長時間海面に浮かび続けるのは難しそうだ。ふわりと浮いて、落ちる。その繰り返しに気分が悪くなってくる。

「メルベル。しっかりしなさい。意識を失ったら駄目よ」

「……ルシエラ」

「ええ、そう。わたくしがいるのだから、もう大丈夫」

 延々と話しかけられ、そのおかげで気絶は免れた。しかし身体のどこにも力が入らず、寒さで小刻みに震えはじめる。

 いくら南方とはいえ季節は冬。海水の温度は低く、時間が経てばたつほど容赦なく体温と体力を奪っていく。

 うねりの強い波間に揺られながら、おかしな組み合わせの一行が行動を共にしているのは、たったひとつの木の板に全員がしがみついているからだ。

 幅はメイラの指先から肘程度で、長さも成人男性の身長ぐらいしかないが、浮力のある木の板はなんとか皆の身体を支え命をつないでくれていた。

 それからどれぐらい波にさらされていただろう。

 どうやら男性陣は潮目を横切るように泳いでいたらしく、白い砂浜のある島へと近づいていた。

 真っ先に足が海底についたのはスカーの同郷の男だ。明らかに身体の向きが変わり、なんとはなしにぼんやりとそちらを見ていると、次いで黒墨色の肌の男も立って海中を歩き始めた。

 やがてメイラの足にも細かい砂の感触が当たった。しかし水の抵抗もあってすぐには立って歩けない。

「ここはどこなの、海賊。連絡手段はあるのでしょうね」

 水を吸った衣類が重い。

 浜へ浜へと皆が移動していくので、仕方がなしに足を踏ん張って立って進むが、それほど行かないうちにガクリと膝が折れた。

「……ごめんなさい」

「いいのよメルベル。とんでもない目に遭ったわね」

 とっさに支えようと手を伸ばした男どもより先に、メイラを軽々と抱き上げたのはルシエラだった。

「本当にごめんなさい」

 次の謝罪は、驚愕の表情を張り付けた男性陣に向けてだ。

 ルシエラが絶世の美女であることは否定しない。しかし、そのほっそりと嫋やかな風情を裏切って、やることなすこと規格外れなのだ。

 気質もそうだが、剣の腕も相当に立つようだし、その外見を裏切る剛腕に驚くのは彼らが初めてではない。

 メイラは柔らかな日差しを浴びつつ、その風にぶるりと震えた。むしろ海中にいるほうが温かいと感じるほどに、体温が奪われ体力も限界だった。

「火を焚きなさい。真水はないの?」

 女王さまがテキパキとしもべ共に激を飛ばす。ぶつぶつと文句を言いながらも、かの海賊王子までもが指示にしたがっているのは、彼自身も寒かったのだろうと思う。

 結論を言うと、水場はすぐに見つかった。

 入り江から十五分ほど森に踏み込み、複雑なけもの道をしばらく行った先。海まで至る前に地面に消えた小川の、その遡った先に滝があったのだ。

 このような、普通であれば簡単には見つからないであろう水場にたどり着けたのには、理由があった。

 スカーとその同郷者もはじめは信じられない様子だったが、なにやらこそこそと言葉を交わしたかと思うと、お互いにここが故郷の島であると結論付けた。

 つまりは、ギラトス島から大型帆船で二日の距離を一気に流されたことになる。

 御神の采配としか思えないこれらの事象を、スカーは何故か彼女がなした奇跡だと賛美した。

 たちまち疑わし気な顔をされたので、もちろん違うと否定しておいたが、ルシエラが当然だとでも言いたげに頷くものだから、かなりの勘違い女だとでも思われたのではないだろうか。

 しかし、サメに食われそうになったあの瞬間を思い出すと、今生きているのは奇跡だとしか言いようがないのは事実だ。

 そもそも何故あの時、異母兄や陛下の姿を垣間見ることが出来たのだろう。

 何故自分は、あの恐ろしい炎を掴みとれると思ったのか。

 結果論的にはすべてがあるべき道筋に沿っているのだろうが、この場にいる全員が骨も残らないほどに燃やし尽くされていた可能性もゼロではなかった。

 後から聞いたところによると、まるで巨大な灼熱の鉄球を落としたかのような爆発が起こったらしい。

 海水が吹きあがり、周囲にもうもうと蒸気が充満し、おそらくメイラを食おうとしていたサメは焼けこげるどころか霧散したのではないだろうか。

 ただその時のメイラに意識はほとんどなかった。

 なおも海中に沈んでいこうとする彼女を救ったのはスカーであり、ルシエラだ。いくら天災様といえどあの暴力的な水流にはなすすべがなく、同じように吹き飛ばされた海賊王子たちと共に団子のようになって遥か沖合まで流されてしまった。

 挙句の果てに、流れ着いたのが目的の島だというのだから……奇跡というか、都合が良すぎるというか、そこに大いなる神の御意が働いているとしか思えない。

 メイラは静かに目を閉じた。

 そこまでして導かれた先に何が待っているのか、深く考えてはいけない。

 ただ御神を信じ、奇跡に感謝して、成すべきことを成さねばならない。

「メルベル?」

 塩水を吸ってべたつく身体を、服を着たまま清水に沈め、メイラは震える唇で大いなる神々に祈りをささげた。

 震える肩をそっと支えてくれるルシエラに、深い感謝を。

 スカーにも、その同郷者にも、海賊王子にも……今に至る契機をもたらしたすべてのものに、神の御加護がありますように。

 そして陛下。

 瞼を閉じれば、何体もの巨大竜に対抗しようとしていた異母兄や陛下、翼竜にまたがった多くの竜騎士たちの姿が目に浮かぶ。

 もはや時間がないのは明白だった。

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