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 触れた硬いものがアンプル瓶なのか、いやそもそもそれが回復ポーションなのかさえ確かめることはできなかった。

 視線は縫いついたように固定されていて、逸らせば襲い掛かられるのではと、肉食獣を前にした小動物のような恐怖に縛られていたのだ。

 顔の判別もできない暗がりだからこそ、よけいに恐ろしさが募った。

 メイラには、彼に対抗できるだけ力はない。しかも目の前には意識のないユリウスがいて、下手なことをすれば彼の命にもかかわりかねない。

 探り当てた小さな瓶を、可能な限りそっと、掌の内側に隠し持った。

 ユリウスに飲ませるにしても、傷口にかけるにしても、今は無理だ。

「……さあ、参りましょう」

 暗がりだが、スマートな仕草で手が差し出されたのがわかった。

「その男のことはご心配なく。丁重に扱わせていただきますよ」

 それは、人質という意味か?

 無言で顔を顰めると、「この寒空の下で放っておくと、死んでしまいますよ」と、メイラがもっとも恐れる台詞をさらりと落とす。

「こちらには腕の良い治癒師が何名か随行しておりますから、息さえあれば命を救い後遺症も残さず回復させることが出来ます」

 それは、明確にメイラに向けての圧力だった。

 つまり、いう事を聞くなら治癒師を手配するが、聞かないならユリウスを含め怪我人の回復に手は貸さないという意味なのだろう。

「……信用できません」

 メイラは努めて冷静な口調を心がけつつ、震える両手をぎゅっと胸の前で組んだ。

 頼みの綱は掌の間に隠し持った小さな瓶で、たったそれにしか縋れない、他にはどうすることもできない自身の不甲斐なさに涙が出そうになる。

 しかし、泣き伏してしまうわけにはいかないのだ。

「神の慈悲深き御心にそぐわぬことをなさっている方を、信用できるはずもありません」

 メイラはその場で背筋を伸ばし、ぴしゃりと言った。

「何と酷いことをおっしゃる」

 黒衣の神職は、大げさにのけ反って首を振った。

「罪深い行いを止めたいという、我らの切なる願いがご理解いただけないとは」

 表情が見えないだけに、その上っ面だけ真摯な彼の内心が透けて見える気がした。

 確かにこの男は神職なのかもしれない。しかし、人の命を軽く扱うその姿勢は、メイラとは到底相いれないものだ。

「戯言は結構です」

 できるならルシエラの、マローの、メイラを守ってくれていた者たちの無事を知りたい。

 彼女たちはどうしているだろう。この死神の手を持つ男により、帰らぬ者になってはいないだろうか。

「すべてを救えとは、わたくしも申しません。必要であるならば、犠牲もまた神の定めたもうた運命なのかもしれない。……ですが、あなたがそれを決める立場にあるとは思わない」

 大勢の命の為に少数を犠牲にすることは、時として必要なことなのかもしれない。しかし、望む道を作るために血を流すやり方は、神の使徒が取るべき手段ではない。

「あなたは真摯に頼めばよかったのです。わたくしの祈りが必要であるなら、ダリウス神にこの身を捧げよというなら、正直にすべてを話すべきだったのです」

 本当は、彼女が思っているよりも事態は切迫しているのかもしれない。メイラの知らない何かがあって、説明している暇もなかったのかもしれない。

 しかし、たとえそうだったとしても、彼らのやり方は間違っている。

「幾万の人々を救うためならば、わたくしは迷いながらも頷いたでしょう。夫との別離を受け入れ、この命を神の御前に捧げる事すら厭わなかったでしょう」

 メイラは神に祈る姿勢を取って、しっかりと黒衣の神職に視線を据えた。

 そうだ。御神はきっとメイラを見守ってくださっている。守るべき者を決してあきらめはしない。

「こんなふうに、容易く血を流す道を選択するあなた方を、今はもう信じることはできません」

 恐怖で委縮していた身体から、震えが消えた。外側は冬の冷気で氷のように冷たいが、心の芯に炎が灯る。

「わたくしの為に立ちふさがってくれた者たちを、あなたの正義の犠牲にするつもりはない」

 メイラは、中央神殿の権威の行使者に対して、明確に拒絶の意思を示した。

 それは、決別の言葉だった。

 彼女は自らの道が、彼らと共にあるものではないと決めたのだ。

「……それがお答えですか? 神の御意思の背き、われら中央神殿と敵対すると?」

 メイラのそんな決意を、黒衣の神職は鼻で笑った。

 もはや、侮蔑を隠そうともしていなかった。

「あなたごとき小娘に、神敵になる度胸があるとは思いませんでしたよ」

「神敵? わたくしが?」

 メイラは静かな目で黒衣の神職を見上げた。

「わたくしはあなた方についていくつもりはないと申し上げただけです。中央神殿に行かなくとも、御神にこの声を届けることはできます」

「……ほう?」

「ダン!!」

 確信があったわけではない。

 しかし、黒衣の神職のマントの留め具に反射する、ちかちかとかすかな光にすべてを託した。

 一定間隔で瞬くそのリズムは、かつて港町ハッサートで、短いながらも行動を共にした男たちが使っていた合図だ。

 ざっと音もなく複数の人間がその場に降ってわいた。

 メイラの目にそう映っただけで、実際はどこからか屋内に侵入していたのだろうが、瞬き一回分もしない間に彼女と黒衣の神職の間には複数の男たちが立ちふさがっていた。

 狭い物置小屋の人口密度が一気に増し、さすがに黒衣の神職も数歩後ずさる。

「……おやおや」

 その首筋に背後から短刀を突きつけたのは、彼よりもなお深い闇色を身にまとった男。

 スカーは容赦なく刃を振り抜こうとしたが、どうやってか、まるで手品のように黒衣の神職はその腕から逃れていた。

「私としたことが、魅力的な女性との会話に夢中になってしまいました」

 欠片もそんなことは思っていないだろうに、意味深に含み笑う。

「少々分が悪そうですね?」

「そう思うなら、お引き取りください」

 メイラは張り付いたように合わさった両手を解き、素早くアンプル瓶を薄明かりの中にかざした。緊急時暗闇でも判別できるように張られたラベルの色は、ぼんやりと青い。間違いなく回復ポーションだ。これで彼の命を救うことが出来る。

 周囲をマロー曰くの犬たちに囲まれた安堵もあったのだろう。メイラの双眸からほろりと大粒の涙が溢れ、頬を濡らした。

「これをユリウスに」

 一番近くに膝をついた男性に渡すと、何故かひどく驚いた表情をみせてからコクコクと首を上下させて受け取ってくれた。

 ユリウスの容態は気がかりだったが、まだここが安全ではないという事はわかっている。

 こちらをじっと見ている神職との距離は開いたが、彼が今の状況を畏れる様子などまるでなく、まだ何か手段を持っているのではないかと警戒するに十分だった。

 メイラは冷たい石の上に長時間ついていた膝を伸ばしながら、ゆっくりと立ち上がった。

 広がった血だまりは、跨ぐには広すぎて、今更ながらにユリウスの怪我の大きさに胸が痛む。

「あなたが、傍付きたちの命を楯に、思うがままにしようとしたことは忘れません」

 いつの間にか、メイラを取り囲む影者たちが数を増やし、十人以上が開け放たれた引き戸の向こうで剣を抜いているのが見えた。

 双方がぶつかればまた怪我人が出る事は確実で、そうなる前にお引き取り願おうと、強引に別れの挨拶を口にする。

「猊下に、御心に沿えず申し訳ございませんとお伝えください」

 できれば二度と、この男の顔は見たくない。

 しかし、ずぐにまた会うことになるのだろう。

 メイラは、慇懃無礼な礼をとり去っていく後姿を見送りながら、そうなる前に行動を起こさなければと強く思った。

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