6

 のしかかってくる重みが、どんどん増えてきている気がする。

 近くを通り過ぎた足音が聞こえなくなってしまうと、折り重なるように身を潜めているユリウスの体温の低さが気になり始めた。

 とても静かだが、呼吸している音は聞こえる。しかし、メイラの口を塞ぐ彼の手は氷のように冷たい。出血の量が多すぎて、失神しているのではあるまいか。

 心配になって目だけを動かしてみるが、周囲の闇が深くて至近距離にいてさえ相手の輪郭程度しかわからなかった。

「……ユリウス?」

 吐息程度の小声で名前を呼ぶと、はっと息を飲む音がした。

「止血しないと」

 やはり、意識が遠かったのかもしれない。

「……」

 彼は軽く首を振って、もう一度「シ―ッ」と息を吐いた。

 しばらくそのままでいたが、やがて無言で顔だけ起こし、周囲の気配を探るようなそぶりを見せる。

 メイラにはただ深夜の静けさしか聞き取れないが、ユリウスには何か察知するものがあったらしい。

 もう一度メイラの上に身を伏せて、左手でマントを頭から被った。

 呼吸数回分ほどの後、カツカツカツと、石畳みを歩く硬い踵の靴の音がする。

 果たしてそれがあの黒衣の神職だったのか、その配下の者たちだったのか、はたして単なる通行人だったのかはわからない。

 しかし、狭くも血なまぐさい暗闇で小さくなっていると、恐怖は耐えがたいほどに膨らんでいく。

 いつ見つかるかと心底怯えていたので、最初、細かく震えているのが自分ではなく、己の顔に触れているユリウスの手だとは思いもしなかった。

「……ユ」

 名前を呼ぼうとした口を、もう一度強く塞がれる。

 やはりその手は氷のように冷たくて、カタカタと震えていた。

 メイラは出来るだけ音を立てないように身体の向きを変えて、同じマントにくるまっているユリウスに顔を近づけた。

  暗くてよく分からなかったが、素手で触れるとやはり出血がひどく、顔の半分以上をぬるりとしたものが覆っている。

 どこに怪我をしているのか分からなかったので、できるだけそっと、目があると思われる場所に触れてみた。

 びくびくと震える瞼は閉ざされていて、眼球自体は無事のようだが、はっはっと吐き出される息が細く小さい。

 メイラは己の口を塞いでいた手を握り、そっと揺すった。

「ユリウス、ねぇ、ユリウス……」

 可能な限りの小声で呼んでみるが、返事はない。

 失神どころか、死んでしまうのではないかと気が気ではなくて、身を潜めていなくてはいけないのは判っていたが、思いっきり強くその肩を押した。

 細身だが成人男性なのでそれなりの重量のある彼を、身体の上から退かせるには力が要った。

 なんとかその下から這い出ることはできたのだが、身を隠していた台車がガタリと大きな音を立てて動いてしまう。

 さすがに背筋に氷が落とされたように肝が冷えた。

 裏通りに面している引き戸は開けっ放しのままなので、覗き込まれるとすぐに見つかってしまうだろう。

 ドクドクドクと、周囲に聞こえるのではないかと思う程に鼓動が大きくなる。

 メイラは一度目を閉じて、深呼吸した。

 今何をするべきか、その優先順位を考えて、パニックに陥りそうな心を落ち着かせようとする。

 ここでメイラが恐怖に泣き叫んでも、追手を呼び寄せるだけだろう。そうなればきっと、ユリウスは助からない。

 まずは、目の前の今にも死んでしまいそうな男をなんとかしなければと、それだけを考えることにした。とても心が落ち着いたなどと言える状態ではなかったが、けが人の手当てならできる、と自身に言い聞かせる

 死んだようにぐったりと横たわるユリウスの様子をよく見ようと、四つん這いになって彼の顔を覗き込んだ。

 闇に慣れてきた目が、朧に彼の顔を浮き上がらせる。

 見れば見るほどに血まみれだった。医者でも治癒師でもないので本格的な治療はできないが、とりあえず出血を止めなければ。

 メイラは夜着の裾を両手で握った。

 ビリリと布が裂ける大きな音がして、一瞬ひやりと手が止まったが、耳を澄ませても誰かが近づいてくる様子はなかった。

 薄手の夜着の切れ端は、大量の血を吸えるものではない。しかし他よりは比較的清潔そうなので、問題の傷口を確かめるために、おおまかに顔の血を拭うのに使った。

 こぷこぷと未だ出血し続けているのは、髪の生え際からこめかみにかけて。かなり深い切り傷のように見える。

 子供が頭部や顔に怪我をした場合、まず最初にするのは圧迫止血だ。

 ユリウスの傷は、ちょっとした子供の怪我とは比較にならないほど範囲も広いし出血も多いが、今の彼女にできることはそれだけだった。

 とまれ、とまれと口の中で唱えながら必死で傷口を押さえる。

 あっという間に夜着の切れ端はぬるぬると濡れそぼってしまったので、その上からマローの軍用のマントを丸めて押し当てた。それでもなお両手は血まみれになり、ついには床に血だまりが広がり始める。

 どれぐらいそうしていただろう。

 焦りながらも必死に押さえた甲斐あって、徐々に出血量が減り始め、やがてメイラの肘から鮮血が滴り落ちなくなった。

「ユリウス?」

 もしかして、心臓が止まってしまったのではないか。

 出血がおさまったのはそれが理由かと青ざめたが、よくよく見ると、胸がかすかに上下している。

 メイラはほっと安堵の息を吐き、なおしばらく傷口の圧迫を続けた。

「そんなところに隠れていらしたのですね」

 心構えをする間もなく、唐突に投げかけられた言葉にひゅっと喉が鳴った。

 出血がおさまったことで緩みかけていた気持ちが、目に見えない何かで縫い付けられたかのようにその場で凍り付く。

「……ひどい血の臭いだ」

 コツ、コツ、コツと靴の音がした。

 近づいて来るのがわかっているのに、恐ろしくて顔を上げることが出来ない。

「贄に相応しい血まみれのお姿ですねぇ」

 そういってあざ笑うように鼻を鳴らしたのは、確かめるまでもなく、あの黒衣の神職だった。

 恐怖の中で考えるのは、意識のないユリウスからどうやって相手の気を逸らせるかだ。

 今のままだと、彼は死んでしまう。相手がユリウスを助けるほど親切だとは到底思えない。

 メイラはハッハッと深くは吸えない息を吐きながら、精一杯の勇気を振り絞った。それでも直視はできなかったが、真夜中の裏通りに面した入り口に、闇よりなお黒々とした人影が立っているのはわかった。

「そろそろお遊びも終わりにしましょうか」

 それはまるで、死神の宣告のように聞こえた。

「猊下も心配なさっておいでですよ」

 耳当たりの良い穏やかな声色。見えなくても伝わってくる、聖職者らしい笑顔。

 有無を言わせぬその雰囲気から、メイラの意思など聞くつもりもないのだとわかる。

 ゆっくりと、その顔があると思われるところまで視線を上げた。

 顔の細部がわかるほどの明るさはないが、彼の持つ底なしの闇が可視出来る状態でそこにあった。

 今、メイラになにができるのか。

 痺れたように恐怖で思考が凍りつく中、空回りしそうになる心の中で再びそのことを考える。

 確か彼はポーションを持っていると言っていなかったか?

「無駄な抵抗はなさらないほうがいい。貴女様に怪我をされると、猊下からお叱りを受けてしまう」

 刃物でも探していると思われたのだろう。その行動を止められる前に、手探りしていた指先に硬いものが触れた。

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