修道女、旅立つ

1

 案内されたのは、運河の堰にほど近い、古いレンガ造りの平屋だった。

 家屋の脇にある半地下仕様の階段を降りると、更にその先は地下につながっていた。

 入り口は狭く、通常であれば足を踏み入れるのもためらう暗さだ。

 ダンが連れてきてくれたのだから、この場所に対する不安はないが、あれほど大勢いた男たちが一気に数人にまで数を減らし、ユリウスもまたどこかへ運ばれてしまった事に対しては、身体の芯まで冷えていくほどの心許なさを覚える。

 階段を降り、L字に曲がる廊下を進むと、その先にはいくつかの薄汚れた扉があった。

 そのうちのひとつの前でダンが独特なノックをすると、奥から低い男の声で応えがあって、合言葉らしき何かを囁き合ってからガチャリと重く鍵が開いた。

 扉の向こうには、更に下に向かう階段があった。

 真っ暗で、まるで黄泉の国へ向かう小路のようだった。

 さすがに足を踏み入れるのが恐ろしくなってきたが、ダンがためらいもなく先に進むのでついて行かざるを得ない。

 しばらく足元に注意しながら階段を降りると、その終着点で鼻先に暖気のようなものを感じた。

 闇に慣れた目を凝らせば、扉の先にうっすらと明かりが見える。

 再びのノック。再びの合言葉。その後に開いた扉の向こうには、温かな空気とオレンジ色のランプの光があった。

 ひと一人が擦れちがうのがやっとの広さしかないが、意外と居心地が良さそうな廊下には椅子が置かれ、見張りの男が痩せた身体を壁に貼り付けるようにして頭を下げる。

 椅子をよけながら廊下をまっすぐ進むと、突き当りにもまた男が一人立っていて、メイラたちがたどり着くより先に木製のドアを押し開いた。

「御方さま!?」

 メイラがその先を目にする前に、扉の奥から聞き慣れた女性の声がした。

 そこは、廊下の狭さからはイメージのつかない広さの、小花柄の古びた壁紙が張られたダイニングだった。ひと家族が食事できる大きさのテーブルがあって、奥にはキッチンが備え付けられている。

 壁際の褪せたクリーム色のソファーで身を寄せ合っていた女性たちが、メイラの姿を見て安堵の表情を浮かべた。

「ユリ。シェリーメイも」

 その中にフランがいない事に嫌な予感を覚え、ぶるりと震える。

 出迎えの為に立ち上がった彼女たちに怪我は無いようだったが、顔色は悪く、部屋着の上にショール羽織っただけの見慣れない姿だ。

 そこにはルシエラも後宮近衛の女性騎士たちもおらず、二等女官マロニアの呆然とした表情が全てを物語っていた。

「よくぞご無事で!!」

 いつも冷静で気丈なユリが、くしゃりと顔を歪めながら小走りに近づいてきて、躊躇うことなくメイラを抱きかかえた。

 使用人が主人にするにはふさわしくない行為だったが、心も身体も冷え切っていたメイラは危うく号泣しそうになる。

「……他の皆は?」

 ひくり、と一度嗚咽を零してから、本当は聞きたくないことを尋ねた。

「フランは、離宮に襲撃してきた者ども相手に剣を握り、殉職しました」

 耳を塞いでしまいたかった。

 駄々を捏ねる子供のように、そんなはずはない! と叫びたかった。

「ルシエラは? マローは?」

「最後にお見掛けしたのは離宮を脱出した際で、この者たちに従い御方さまをお待ちするようにとの事でした」

 ぶるぶると震える指で、ぎゅっとユリのショールを掴んだ。

 『撫でてやっただけ』だというあの男の言葉など、やはり信用できるものではなかったのだ。

 泣いてはならない。そんな資格はない。

 たったひとつの逡巡が、このような事態を引き起こしてしまった。これ以上間違えるわけにはいかない。

 メイラは傍に控えるダンの巨躯を見上げ、一度深く息を吸い込んだ。

「……至急負傷者の確認を。可能であれば、亡くなった者たちの形見だけでも回収してあげて」

 真っ黒な目が、彼の配下を危険にさらした不甲斐ない女をじっと見下ろしている。

 膝をついて謝罪したくなる欲求と戦いながら、民族的に己と同じ色彩を纏う男の視線に耐えた。

 瞬きしてしまえば、きっと涙があふれてしまう。

 修道女であった頃は、何も持ってはいなかったが、こんな辛さとは無縁だった。

 この道を選んだのはメイラ自身だ。行く先がどんなに過酷なものであろうとも、引き返すことは許されない。

「あの者は引きましたか?」

「……はい。今のところ追撃はないようです」

 黒衣の神職は本当に一旦引いてくれたらしい。

 メイラの言葉の何かに感じるものがあったわけではなく、猊下の指示を仰ぐか、体制を立て直すためだろう。

 こちらの手勢が減っている今、動くなら時を待っていてはいけない。

「スカー」

 片時もメイラから離れずついてきていた異民族の男と視線が合った。

「あなたの故郷に案内してくれないかしら」

「はい」

 鉄さびのような声が、わずかなためらいもなく是と答える。

 あの湖に行けば、御神に直接声が届くと思う。神頼みではないが、今起こっている諸々の事について多くの答えが出るだろう。

 そこで神の御意思を問うのだ。必要であれば、この命を捧げても構わない。

「それは……」

 事情を知らないであろうダンが難しい顔をした。

 非力なメイラには大人しくしておいて欲しいのだろう。彼の気持ちは理解できるが、その結果が今の状況だ。

 何もせずにいれば、確実に中央神殿が仕掛けてくる。

 あの黒衣の神職のことだから、ためらいもなくメイラの周囲の者たちを手に掛け、それも神の御意思だと宣うのだろう。

 そんなことはさせない。

 絶対にさせない。

 メイラは毅然と顔を上げた。

「時間がないのですぐに出立します。ユリ、あなた達はここに居なさい。父を頼れば安全です」

「そんな! 御方さまをお一人で行かせるわけにはまいりません!!」

「一人ではありません」

 夢で見たあの湖は、植生からしてメイラの生まれ育った地とは違った。無知なメイラだけでこの国を出るのは無謀だ。

「ダン、悪いのだけれど、付いてきてください」

「御止めすることは叶いませんか」

「あなたが行けないというのであれば、スカーと二人で参ります」

「とんでもない!!」

 人数は可能な限り少ない方がいい。目立てばすぐに追手につかまってしまうだろう。

 ついていくいかないと揉めそうになったのを、メイラはすべて却下した。

 血まみれの夜着を着替えたいと言うと、言い合いは途中で切れ、彼女の身の回りの世話をするのが本分のメイトたちが仕事をはじめる。

 男性たちが部屋を出て行くと、人数が減って室温が下がった気がした。

 メイラはもの言いたげなユリたちの仕事ぶりを見ながら、そこにいないフランの存在を改めて強く胸に刻む。

 いつか彼女の形見を親族に届けたい。墓に溢れるほどの花を飾り、その魂の安寧を願いたい。

 こびりついた血を丁寧に拭ってもらいながら、張り詰めた糸が緩んでしまわないよう奥歯を噛み締めた。

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