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 まったく身に覚えのないことなら、即座に否定できる。

 しかし、ほんの少しでも引っ掛かりがあると、正直者の顔にはすぐにそれが表れてしまう。

 メイラは嘘が苦手だが、善悪云々という理由ではなく、子供相手でもすぐに表情を読まれてしまうからだ。

 部屋の隅、メイラからはかなり離れた位置に転がされているスカー。

 その首筋にはテトラが剣先を沿わせ、更には陛下の傍付きの近衛騎士がふたりとも、抜身の剣を床に向けて、不審な動きをすれば即座に切って捨てると言いたげな表情をしている。

「お顔の色が優れませんが、いかがなさいましたか」

 そう尋ねてくるルシエラの表情は、眩しさを感じるほどに明るかった。

「お風邪を召されていなければよいのですが」

 美しい彼女の珍しくも満面の笑みだというのに、ぞわりと背筋に悪寒が走った。

 助けを求めて部屋の中を見回してみたが、見事なほど誰とも視線が合わない。

 悪いことをした覚えなどないのに、どうして咎められているような雰囲気になっているのだろう。

 ……いや、理由はわかっている。

 メイラを膝の上に乗せ、ソファーに深く身を預けて座っている陛下が、ものすごく不機嫌そうだからだ。

 部屋中の者たちがピリピリしているのと、ルシエラが晴れやかに微笑んでいるのとは、きっと同じ理由だ。

 夢の話をしておくべきだった。……その機会を奪ったのは他ならぬ陛下のほうだが。

「……私は寛大なほうだと思ってきたが、さすがにいい気分ではない」

 耳元で響く陛下の声は、常にもまして低い。

「かつて想いあう男が居たとしても、それはしかたがない事だ。だが、いまのそなたは我が妻だ」

「……は?」

 おもわず、間抜けな声が出てしまった。

 想いあう男? 恋人のことか??

「え、違います」

「とぼけずとも良い。昔のことは昔のこと、今更蒸し返してどうこうするつもりはない。だが、この先はわきまえて欲しい」

 自慢ではないが、修道女という立場を素で厳守し、異性にそういう感情を抱いたことすらない。

「違います」

「後宮に多数の妻を抱える身で言えることではないかもしれないが、私はそなたを他の男に譲る気はない」

「違います」

 つまりは何だ? 湯殿に潜んできたスカーを、かつての恋人だと思っているというのか?

 湯殿であろうが手洗いであろうが、メイラが一人になる事などまずない。どうすれば男と密会できるというのだ。

 段々腹が立ってきた。

「……違います」

 ぐるり、と背後の陛下を振り返り、上衣の胸元をぎゅっと掴んだ。

「メルシェイラ?」

「違いますからね。スカーは恋人ではありません」

 ぐいぐい、ぐいぐいと掴んで揺する。

「どうしてそういうことになるんですか!!」

「お、御方さま!!」

 ユリが慌てた風に声を上げたので、そこで初めて己の手が陛下の襟首を握っていることに気づいた。言われずとも、とてつもなく不敬な真似だ。

「……そうなのか?」

 しかし陛下は怒りもせず、逆にメイラの手を握り返した。

「そこの男は、そなたの恋人ではない?」

「違います」

 真顔で問われたので、真顔で返した。

「どうしてそう思われたのですか?」

「そういう噂がございます」

 気まずそうに視線を泳がせ陛下に代わり、こちらも笑顔から真顔に戻ったルシエラが答えた。

「御方さまには領内に想い交わした男性が居て、この機会に逢引なさっていると」

「……あいびき」

「自称御方さまの想い人だと名乗る男が複数、酒場などでくだをまいて、閨でのあれこれを事細かに」

「……なんですかそれは」

 逢引云々は、メイドたちに聞けばわかるだろう。閨でのことも、男慣れしていないのは陛下のほうが御存じのはずだ。

 それなのに、夫がある身でかつての恋人とも逢瀬を楽しむような女だと思われたのか?

「その……すまない」

「……」

「そう怒ってくれるな」

 怒られても仕方がない事だとは思ってくださっているわけだ。

 メイラはむっつりと唇を引き結び、意図的に陛下の方は見ようとせず、再度部屋中を見回した。

 やはり誰とも視線は合わない。

「メルシェイラ」

 陛下がソファーの背もたれから身を起こし、腹に回していた腕でメイラを引き寄せた。

「許せ」

 ふわり、と意外と柔らかな髪質の長髪がメイラの肩に垂れた。首筋に陛下の顔が押し当てられる。

その謝罪の言葉を聞くなり、怒りは一気に鎮火した。

 大帝国の皇帝を、傍付きどころか第三者であるスカーもいる前で謝罪させるなど!

 たかが小娘一人に申し訳なさ過ぎて、慌てて腹の前にある陛下の腕をつかむ。

「陛下! そのように軽々しく謝罪を口にされるなど」

「ハロルドとは呼んでくれぬのか?」

「……っ、いえ、ハロルドさま」

「わかった。そなたの名誉を穢すような噂をばら撒く連中は、すべて捕えて極刑に」

「ハロルドさま!!」

 とんでもない。

 明らかにメイラを陥れるための噂の蔓延なのだろうが、噂を流したからと言って死人を出すなど、どんな暴君だ。

 ぎょっとして夫の顔を見ようとすると、離すまいと腕に力が籠められた。

 十も年上の陛下が、まるで悪い事をしてしまった子供のような表情になっている。

 他ならぬ己が、陛下にそのような顔をさせているのだと理解するなり、メイラの中から怒りの感情が霧散した。

「……怒ってはおりません」

 拘束された腕から何とか手だけを開放し、眦の下がった陛下の頬にそっと触れる。

「ただ、誰がそんな噂を流したのかが気になります」

 至近距離にあるクジャク石のような双眸が、ほっとしたように緩んだ。

「予想はついている」

「……まあ、そうなのですか?」

「そなたが私の側から消えたとしても不思議はない状況を作りたいのだろう」

「消える? 刺客を差し向けてくる者たちとは違うのですか?」

「それはわからぬ。だが、例えば今そなたが姿を消したとすれば、昔の恋人と駆け落ちしたのではと噂されただろう」

 駆け落ち?! 幼いころに淡い初恋をして以来、片思いの相手すらできたことのなかったメイラが?

「失礼いたします。公爵閣下がいらっしゃいました」

 ドアがノックされた音も、来客を告げる従僕の声もメイラの耳には届いていなかった。

 ただあっけに取られて、ぽかんと口をあけて夫の顔だけを見ていた。

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