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 襲われていた女性は、テトラがどこからか用立ててきたドレスに着替えるのもままならず、ぶるぶると震えて足腰が立たない様子だった。

 彼女の為にも出来るだけ早くこの場所から離れたほうがいいと判断し、キンバリーにあとの事を任せ、取り急ぎメイラの部屋に連れて行くよう指示を出した。

 というのも、彼女にこの夜会に共に来たパートナーについて尋ねると卒倒しそうになり、震えて返事もできなくなったからだ。それでは家族の誰かに来てもらうかと聞いてもみたが、必死で首を振る様はいっそ気の毒になるほどだ。

 パートナーや家族に迷惑がかかる事を心配している雰囲気ではなく、このことが知られるのを恐れているように見えた。

 奥歯がかみ合わずまともに話すこともできない彼女は、メイラよりいくらか年下で、着ているドレスを見てもそれなりの家格の御令嬢だとわかる。男に襲われたなど知られてしまえば、とんでもない醜聞になり、嫁ぐことも難しくなるだろう。

 故に、無理に彼女の身内を探すようなことはせず、落ち着くまで人目に触れない場所に匿うことにしたのだ。

 とはいえ、ただでさえ衆目を集めているメイラが、足腰立たないお嬢さんを引きつれて歩けばどんな突拍子もない憶測が飛び交うか知れない。

 ものすごく気が進まないが、メイラ自身は彼女と別行動をとり夜会に戻ることにした。

 父に会う最短ルートだという判断もあった。猊下をお待たせしているという申し訳なさもあった。

 出来るだけ優雅に見えるように、しかし足早に化粧室を出ると、目指す場所に黒山の人だかりができていた。

 休憩していた猊下を、大勢の男女が取り囲んでいるのだ。

 よもやこちらでも何かあったのかと心配になったが、人々より頭一つとびぬけた長身の護衛騎士の表情を見て、ただ囲まれているだけのようだと察した。

 あまりにも大勢詰めかけているので、猊下のお姿は埋もれてしまってメイラの位置からは見えない。

 しかし大柄な神殿騎士がこちらに気づいた。彼が身を屈め、おそらく猊下に報告したのだと思う。ざざっと人垣が割れ、一本の道が作られた。

 その突き当りで、ティーカップ片手に背筋を伸ばした猊下が浅くカウチに腰を下ろしている。

 色とりどりのドレス姿の淑女たちや、正装姿の男性陣に取り囲まれて、真っ白な法衣を身にまとった猊下はキラキラしく輝いて見えた。こちらに向かって微笑みかけ、軽く手を振る様も眩いばかりだ。

 ……この道を通って、そこまで行けと?

 メイラは、若干引きつってしまった頬に精一杯の笑顔を張り付けた。

 嫌だなど言ってはいけないのだろう。

 猊下に向けて独特の熱のある視線を向けていた人々は、現れたメイラに厳しい目を向ける。それはメイラ自身をというよりも、折角の猊下との邂逅を邪魔する者への非難だ。

 いやいや、心行くまでご歓談ください。不作法者はこのまま部屋に戻りますので……とは言えないのが辛いところ。一応は貴賓扱いなので、こんな早い時刻から逃げ帰るわけにはいかない。

「失礼いたします、妾妃メルシェイラさま」

 あの人だかりに突入するのは嫌だ、と二の足を踏んでいると、あからさまに緊急とわかる口調で名前を呼ばれた。

 さっとメイラを守る位置に身体を動かしたマローたちのせいで、その声の主をすぐに目にすることはできなかった。

 相手がマローよりはるかに小柄だったということもある。その男性が、人だかりの視線を遮る豪華な花飾りの傍にいたという位置的関係もあった。

「お尋ねしたいことが」

 向けられたのは、物理的に刃物を突きつけられたような、あからさますぎる敵意。

 護衛たちが敏感に反応するのも仕方がない。

「ティーナはどこに?」

 小半時前には温度のない無関心に近い声色だったのに、抑え込んではいるがほぼ怒声といってもいい。

 マローが少し立ち位置を替えたので、ようやくその声の主が見えた。

「リオネル卿?」

「とぼけないでいただきたい。貴女が彼女を連れ去ったと!」

 ティーナ? 誰?

 小首を傾げて、その見知らぬ名前を吟味して。

 もしかするとあの襲われていた女性かもしれないと思い至るが、どう返答すればいいのかわからない。

「彼女に何かしたらたとえ貴方様であろうと許しません」

「恐れ多くも皇帝陛下の御妃様であらせられるこのお方に、ずいぶんと無礼な口を利くものですね」

 おおおう、ルシエラ。いきなり口を挟むのはやめてください。

 しかもあの馬鹿みたいに内気な女官の仮面をかぶったままで、意図的に作られた震える声で何を言っているのか。

 決死の様子で(あくまでもそう見えるだけだ)主人を守ろうとする健気な女官の姿は、何事かと事情がわからずこちらを注視している人々の目にどう映っているのだろう。想像するだけで頬の筋肉がひきつる。

「ティーナというのが先ほど化粧室で」

「ルシエラ」

 遠慮もなく起こったことをそのまま口にしそうだったのを、慌てて制した。

 これだけの衆目を浴びた中で、男性に乱暴されていたとか、同じ年ごろの御令嬢に囲まれひどい目に遭わされていたとか、そういう暴露の仕方をされてしまえば、折角のメイラの配慮が無駄になる。

「ひどいですわ。御方さまはお困りのお嬢様を庇われ、ご親切にも尊い御手を差し伸べられたというのに」

 尊い御手ってなによ、尊いって。

 呆れた表情が傍目にわからないよう、さっと扇子を広げて顔の半分を隠した。

「まあ、御方さま。お嘆きにならないでくださいませ。大丈夫でございますよ。わたくしどもがお守りいたします」

 そう言って、大げさに震えるへっぴり腰で、両手を広げてメイラを庇う位置に進み出る。

 マローたち護衛がいるのだから、女官という立場の彼女が前に出る必要などまるでないというのに。

 しかし、いかにも荒事とは縁遠そうな(何度も言うが、傍目にはそう見えるというだけだ)ルシエラの必死のその様子は、明らかに彼女を善の、対峙する相手を悪の立ち位置に据えるものであった。

 人々がリオネル卿の存在に気づき、面白いものを傍観するものだった目つきを咎めるものに変える。

 しかしリオネルは一歩も引かなかった。

「彼女を返して頂きたい!」

恋人なのか、身内なのかわからないが、傍目も気にせず強い口調を崩さない。

 こうやって見ると、やはり彼は若いのだ。

 父に非常によく似た面差しをしていることもあって、父のように愛想のない冷淡な気質なのかと思っていた。

 しかし、一歩も引かず強張った表情をしている今は、言い方は悪いかもしれないが彼の未熟さが露呈していて、メイラの目にはむしろ好意的に映る。

 次の次の公爵になるかもしれないと言われている彼の、重大な過失点にならないようにと気遣う程度には、身びいきに思いはじめていた。

「ティーナ様とおっしゃるのがブルネットに灰色の目をされた方でしたら、わたくしの護衛と出合い頭にぶつかり、足首を捻ってしまわれて」

 間違っても、男に組み伏せられレイプされる寸前だったなど言わない。

「お医者様を呼ぶためにわたくしの部屋にお招きしましたの。心配をかけるからパートナーやお身内の方に知らせるのは少し待ってほしいと」

 それにしても、リオネルは誰にこのことを聞いたのだろう。あきらかに意図的にミスリードされている。

 もしかすると、彼を陥れるために、その弱点となるお嬢さんを襲ったのかもしれない。

 後継者レースの一環か何か知らないが、質のいいものではなかった。

「お会いになりたいのであれば、部屋にお招きしますのでいらして」

 そもそも女性を性的に辱めようとすること自体、腹に据えかねるものがある。

「簡単に男性を部屋に呼ぶのはどうかと思うよ」

 不意に、背後から温和な口調で声を掛けられ、そっと腕に手が添えられた。振り返るまでもなく、メイラの今夜のパートナーである猊下だ。

「君のそういう優しいところは、神の御目にも好ましく映るだろうけど」

「そんな。……甥ですのよ」

 感覚的には限りなく他人だが、関係性は叔母甥なのだ。部屋に呼んでも問題ないはず。

「わかっているよ」

 親し気に微笑む猊下を見上げながら、メイラは改めて衆目にさらされていることを自覚した。

 多方面から飛んでくる無数の視線は、興味津々というよりも、なにか粗を探しているかのように温度の低いものだ。少しでも失態をさらせば、どんな醜聞としてささやかれるかわからない。

 メイラだけではなく、リオネル卿もその事に気づいたのだろう。顔から瞬く間に怒りの感情が抜け落ちる。しかし、目だけはまだメイラを射殺さんばかりに険しく、結ばれた唇の奥でギリリと奥歯が軋む音がした。

「陛下のお叱りをお受けする可能性がございますから、わたくしどもの立場からしても、男性をお部屋にお招きすることはお控えいただければと」

 おずおずと、メイラの全身に鳥肌を立たせる声色で……しかし、しっかりと釘をさしてくるのはルシエラだ。

「あれだけのご寵愛を受けておいでなのですから、お気を付けになりませんと」

 今、この場にいる全員に聞こえるように声を張ったわね?!

「陛下はそんなことでお怒りになったりなさらないわ」

「誰彼となく首を刎ねようとはなさらずとも、二度と御方さまの御前に出てくることがないように手を打つことぐらいはなさるでしょう」

 陛下も遠くハーデス公爵領でこんな謂れのない事を言われているとは思うまい。

 できれば否定しておきたかったが、明らかに周囲に対する牽制だったので渋々と頷いておく。

 ふと、リオネルが意表をつかれた表情をしているのに気づいた。

 何に驚いたのだろうと考えていると、ルシエラの美しい顔が内緒ごとをを囁くように近づいてくる。

「……公爵閣下がいらっしゃいました」

 ひっそりと小声で告げるその口角が、若干だが上に吊り上がっていた。メイラが胡乱な目をすると、その青灰色の瞳の奥にちらりと良からぬ色合いが過る。

「かなりお怒りのように見えます」

 周囲で聞き耳を立てていた男女が、ぎくりとした風に背筋を伸ばした。

 せかせかといつもの早足で廊下を横切ってきた父が、状況を見てとってものすごく不機嫌そうに顔を顰めた。

「本日の主賓がこのようなところで何をしておいでですか?」

 本当だ。怒っている。何も知らない人でもわかるほどに、明確に激怒している。

 それは猊下に向けた言葉だったが、怒りはまっすぐにメイラとリオネルの方に向けられていた。

 リオネル卿が若干顔色を悪くし、数度肩を大きく上下させる。

 わかる。父のあの恐ろし気な威圧感は、悪いことなど何もしていなくとも、何か仕出かしてしまった気にさせられるものだ。

「化粧室に行っておりました。そこで少しトラブルがありまして……お聞きになりましたか?」

 ルシエラが仕掛けたようだと察したが、それが何か判らないうちは下手な事は言えない。

 わざと邪気なく怒りなど気づいていない態で問うと、父の黒い目にひときわ強く苛立ちと怒りとが浮かんだ。

「具合が悪いと聞いた。大事無さそうに見えるが」

「まだ少し眩暈はしますが……せっかくの夜会ですから。猊下のパートナーとしてのお役目は果たしますわ」

 問題が発生した。事は収束しているが、しっかりとした対処が必要だ。今は夜会を無事終わらせる方が先。

 言外に告げたそれらのことを、父が腹立たし気に、しかし正確に汲み取ってくれたのがわかった。

「リオネルさま。ティーナ様のお怪我はそれほどたいしたものではありませんと、お友達に伝えてあげてくださいね」

 メイラは、顔から血の気を失せさせ唇を噛み締めているリオネルに視線を向け、ミスリードを煽った何者かに注意するようそれとなく言ってみる。

 しかし、彼がそれを理解したかどうかは定かでなかった。

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