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 メイラは不穏なその場の様子などまったく気づかない振りをして、自然に見えるように半歩下がった。

 左右からマローと、いつの間にかそばに居た後宮近衛の騎士服を着た若干背の低い女性騎士が割り込んできた。

 テトラは何故かメイラの足元に膝を付き、熱心に裾を直している。いまそれをするタイミングなのかと問い詰めたかったが、空気を読んで、なにもかもさも当然だという顔を保つ。

 再び悲鳴を上げようとした女性の口を、従僕の服装をした大柄な男の手が慌てた風に塞いだ。

 噛めばいいのよ! と心の中で応援したのが聞こえたわけではないだろうが、組み伏せられていた手が外れて、その女性は必死で手を振り回した。

 その指先に触れたのは、豪奢な椅子の脚。

 ぐっと手でそこを握りしめた彼女は、むき出しになったふっくらと肉付きの良い足で、思いっきり蹴った。……どことは言わないが。

 足元でテトラがびくりと震える。視線を向けると目を逸らされた。

 男はその場でもんどりうってひっくり返り、身体をくの字に曲げて悶絶した。ズボンを下ろしていたので、むき出しの尻がこちらに向いている。

「なっ、な、なに? 貴女たちここを誰の部屋だとっ?!」

「化粧室ですわよね」

 持っていた扇子で、さっと顔の下半分を隠した。

 この仕草にも慣れてきて、今回は特にスムーズに扇子を広げることが出来たと思う。

「御方さま、ご用意したのはお隣のお部屋でございます」

 いささか芝居がかった仕草で、胸に手を当てて礼をしたのはマローだ。

「お嬢様がた、間違った部屋の扉を開けてしまい、ご迷惑をおかけしました」

「本当に、取り込み中にごめんなさいね」

 イメージしたのは、後宮内でメイラに散々つっかかってきた妃たちだ。

 背筋を伸ばし、扇子で隠していない部分には笑みをたたえ、そのあとにお淑やかに小首を傾げてからの……流し目。

 至近距離にいるマローの唇の端がひきつった。……いま笑ったでしょう。頑張っているのに!

 現場を押さえられた形の若い娘さんたちは真っ青になっているが、同じようにメイラもこの状況をどう捌けばいいのかわからずにいた。

 しかし、ぶるぶると震えて何度も男を蹴り続けている被害者の女性の気持ちはよく理解できる。

 必死に虚勢を張っているメイラに、許可を得るように視線を向けてから、マローは泣きじゃくる女性の傍まで歩み寄った。

「お嬢さん、そんな汚いものはもう蹴らなくてもいいですよ」

 マロー、いま男の脇腹を踏んで行かなかった? いや、それぐらいの扱いは当然だと思うけれども。

「さあ、もう大丈夫ですから」

「ちょっと! 護衛の分際で何勝手なことをしているのっ! これはとある御方の御命令なの。お前ごときが」

「まって、リジアナさま! この御方は……」

 金髪の、メイラより少し年上と思われる女性が、栗毛のほっそりとした美人の腕を引っ張って制した。

 メイラは込み上げてくる怒りを飲み込んで、平坦な口調で言った。

「リジアナさまとおっしゃるの? どこの御家の方かしら」

「貴女こそどこの成金貴族? 見た事のない顔だけど。わたくしを知らないなんて!」

 彼女がメイラのことを知らないのは、ちょっとどうかと思う。それはつまり、夜会が始まって猊下と登場した時に会場にいなかったという事だからだ。

 遅刻したのか、この気の毒なお嬢さんを陥れるために違う場所にいたのかは知らないが、夜会の最初にその場にいないのは、ホストである父に対する重大な非礼だ。

 顔を真っ赤にして尊大に怒りをあらわにしている女性以外は、いくらか状況が理解できているらしい。血の気の失せた顔をして、なんとか彼女の口を閉ざさせようと必死だ。

「その方の身なりを整えて差し上げて」

「はい、御方さま」

「ちょっと待ちなさい! 何を勝手にっ」

 己が悪いことをしたという反省もなく、自覚もないのか取り繕う様子もなく、ちょっとした悪戯と見過ごすにはあまりにもひどい。

 実は貴族の間では、こういうことも密かにまかり通ってしまうのだろうか。いや、厳格な父が赦すとは思えなかった。

「ブライアン、お父さまをお呼びして」

「はい、御方さま」

「詳しい説明をする必要はないわ。わたくしの気分が優れないとでも言えばいらして下さるでしょう」

 ホストである父にとっても、この事をきちんと対処する必要があると思う。

 近衛騎士としては小柄なブライアンが、メイラが名前を呼んだことに少しうれしそうな顔をしながら、騎士としての礼を取り、足早に下がった。

 さて、これからどうこの場を収めるかだが、女性専用の化粧室だということもあり、父とはいえ入ってくることに躊躇いがあるだろう。

 まずは場所を移す必要がある。しかし犯罪行為が行われたという証拠を隠滅されても困るので、ここは閉鎖しておいた方がいいだろう。

 この化粧室は城の中でもっともグレードの高い部屋のひとつだが、化粧室はここだけというわけでもなく、申し訳ないがそちらの順番を多少詰めてもらって、不便は我慢して頂くことにしよう。

 ……意地悪なご婦人方がオマルを使う羽目になるのを「ざまみろ」と思っているわけでは断じてない。

「この部屋には誰も近づけさせないで、警備に調べさせて。男性が潜り込める隠れ場所か、隠し通路があるかもしれないわ」

 夜会が始まってからだと、男が化粧室に入ると目撃される可能性が高いので、早い時間から隠れていたか、どこからか侵入したの二択しかない。化粧室の利用はタイムスケジュールが組まれており、今の利用者であるお嬢さん方の前にも何名かいたはずで、早い時間に使用した者が気づかなかったのであれば、おそらくは隠し通路のほうが濃厚ではないかと思う。

 ちなみにこの場所は眺めの良い三階にあり、地上から壁伝いにテラスに上がるのはほぼ不可能だ。

「これは何事ですか!」

「メイド長!」

 ふいに、メイラの背後から険しい女性の声がした。

 真っ赤になって激怒していた方の女性は喜色を浮かべ、真っ青だったほうはぎゅっと唇を噛み締めて下を向いている。

「……っ、メルシェイラさま」

 覚えているよりも髪に白いものが増えたが、昔と変わらぬ声でメイラ名前を呼ぶ。

 かつてメイラを愛人の子と蔑み、嬉々として父の奥様方の手先となって、汚れた水を頭からかぶせたり、土の上に正座させ鞭打ちしたりしたひとりだ。

「久しぶりね、ローラ」

 思うことは多々あるが、今は何を言うつもりもなかった。

 ここで恨みつらみを言えば、たとえばルシエラあたりが何をするか分からないと危ぶんだせいではない。

 本音を言えば、関わり合いになりたくないのだ。

 こういう輩は勝手に周囲に敵を作り、勝手に疑心暗鬼になるものだ。今のメイラをどうこう出来るはずもないのだから、せいぜい過去の罪を悔い怯えていればいい。

 ただし、彼女が今もなお同じようなことを繰り返しており、今回の件をうやむやにするつもりでいるなら話は別だ。

「騒ぎにしてしまってごめんなさいね。この男、お嬢さん方のお知り合いみたいなの。御盛んなのは結構だけれど、化粧室に男性を連れ込むのはどうかと思うわ」

 ローラの険しい目が、乱れた室内を忙しなく見回す。

 絨毯の上には、いまだ起き上がれない男性使用人。

 倒れた椅子、ティーカップ、破れたドレスの端切れ。

 すでにもう、被害者の女性は本来メイラが使うはずだった化粧室のほうに移動していたので、一斉に声を上げて否定する若い女性のうちの誰かがこの男に襲われたか、あるいはこういうプレイをするために招き入れたようにしか見えないだろう。

「……感心できることではありませんが、もの知らずな若いお嬢様のすることですから」

「そうね。でも今は恐れ多くも教皇猊下をお招きしての夜会の最中。警備の事もありますから、お父さまには報告しておきます」

「そっ、それは!! そんなことをすれば、将来あるお嬢様がたに瑕疵が」

「表ざたにするかどうかはお父様の判断ひとつね」

「なによお父様お父様って! わたくしの父を呼びなさいよ! あなたなんてすぐに二目と見れない顔にして、修道院にでもとばしてもらうんだから!」

「お、お嬢様!」

 ローラが慌てたように栗毛の女性の口を閉ざさせようとした。

「メイド長! いつもみたいになんとかしてよ!」

 ローラは昔から、父に所業が知られないよう慎重に行動していた。

 メイラをいたぶる時も、父が遠くに出払っている時のみ。少しでも危うく思えば、父の奥様方に今はまずいと忠告すらしていた。彼女は父の目をかいくぐることに長けていたように思う。もちろん今回は、そんなことはさせない。

「マロー、この場を任せられる者はいるかしら」

「はい、御方さま。周囲に配置している近衛がすくに参ります」

 父を呼びに行ったブライアンが伝達を出したのだろう。

「こ、近衛?」

 癇癪を起し、淑女らしからぬ仕草で足を踏み鳴らしていた栗毛が、ようやくぴたりと騒ぐのをやめた。

 顔を隠すように下を向いているご友人たちに不安そうな目を向け、誰とも視線が合わないのでローラを、そしてメイラを見る。

「……ひっ」

 急に、何かに怯えるように息を飲み、顔から血の気を引かせた。

 気のせいでもなんでもなく、がちがちと奥歯を鳴らし始めたのはメイラの真後ろを見てからだ。

 メイラもまた背後を振り返り、すぐさま何も見なかったことにした。

 楚々とした淑女を装い、一言も喋らないルシエラは、見た目だけなら極上の美女だ。

 ただ、その目つきはやめなさい。

 免疫のない人の心臓が止まりかねないので。

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