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「おはようございます、猊下」
メイラは深々とカテーシーをして、入室してきた教皇猊下を迎えた。
「昨夜は申し訳ございませんでした。早々に眠ってしまって」
「長旅に疲れていたのだろう、気にすることはないよ」
微笑む表情はとても柔らかい。
この人のどこに用心すればよいのかわからず、詳しい話をしてくれなかった父に心の中で苦情を言いながら微笑み返す。
「父は所用で早朝から出ております。昼過ぎには戻るそうですので、それまでわたくしがお相手を務めさせていただきます」
「そうか! 君と一日一緒にいれると思うとうれしいよ」
なんだか誤解を招きそうな台詞だだが、スルーする。
メイラがにっこりと微笑むと、猊下からも満面の笑顔が返ってきた。
「まずは朝食をどうぞ。搾りたてのオレンジの果汁と、焼きあがったばかりのパンが美味ですよ」
父の代役としてのホステス役をなんとかこなし、美しくカトラリーがセットされたテーブルに猊下とリンゼイ師を招く。
実のところ、昨夜からあまり眠っていなかった。メイラについているという影者が手洗いにまでついてくるのを防止するべく、説得に時間がかかったのだ。
しかし成し遂げた成果にテンションが上がっており、疲れは感じない。
ものすごく条件をつけられたが、なんとか個人の尊厳を死守することが出来た。排せつ中ウンウン言っているところをずっと見られているなどぞっとする。それだけは本当に勘弁して欲しい。
爽やかな朝。いい匂いのする朝食を前に考えることではないが、トイレの個室の確保に夢見心地になってふわりと微笑む。
「君の笑顔は本当に美しいね。後宮であまたの花の中にあってもきっと際立っているに違いない」
「まあ、お世辞でもありがとうございます」
これでドレスの裾を捲っても恥ずかしくない。いくら警護のためとはいえ、むき出しの尻を見られるなど……子供でもあるまいし。
「エゼルバード帝にはとても大切にされていると聞くよ、愛しい子」
「はい。ありがたいことです」
「何かあればいつでも言うがいい」
重要なプライバシーを確保できました!……と朝食を前にして宣言するわけにもいかず、メイラはあたりさわりない笑みを唇に浮かべ、給仕が引く椅子に腰を下ろした。
和やかな食事をしながらも、頭の片隅ににはずっと父の言葉があった。
その意味を理解しようにも、ヒントがなにもないのだ。この方の言葉に嘘があるのか? 例えばどこに?
大切に思ってくれているのは事実だろう。例の御神の骨についても、嘘だとは思わない。
「祭事は明後日の早朝からだ。明日の夕刻から潔斎にはいるので、それまで君の時間をくれないか」
「おや、まるで恋人に乞うているようなお言葉ですな」
「ははは、そうかもしれない」
「リンゼイ師! 猊下も」
「ははは、怒られてしまったではないか」
猊下はずっと上機嫌だった。気のせいだろうか、常にメイラから視線が離れず、目が合うたびに機嫌のメモリが上昇しているように見える。
「今夜はタロス城で猊下を歓迎する夜会を行うそうです」
移動に時間がかかるし、特にメイラの方にはドレスの着付けなどの準備がある。
「さぼってはいけないかな」
「美しく装った使徒メイラを見損ねますよ」
「……ああ、それはもったいない」
朝食の間中、にこやかな空気は続いた。
輝くような笑顔と美味な朝食、しかも神職とは言え見目麗しい男性が同じテーブルにいるとなれば、世の女性陣から羨望の眼差しで見られそうな状況だ。
かなりの至近距離に護衛の近衛騎士と神殿騎士が居ることを気にしなければ、だが。
状況が状況だけに、ものものしい雰囲気は拭えず、それでも朗らかな猊下たちの胆力に感心する。
「食後腹ごなしに散歩でもどうかな?」
「いいですな」
「あなたを誘ったわけではないよ、リンゼイ枢機卿」
「おお、なんとつれない」
テンポの良いふたりの掛け合いに、思わずメイラも笑顔を浮かべる。
しかし当然だが、今のこの状況を忘れてはならない。
「……出歩いて大丈夫でしょうか?」
狙われていると分かっていて、勝手な行動はできない。
メイラがそう問うと、二人の神職はそろってこちらを見て、似たような表情で微笑んだ。
「君を守る騎士たちを信頼すると良い。優秀な彼らに任せておけば大丈夫」
「ですが」
「危ないのは護衛の目が少なくなる時。状態に慣れて油断した頃だよ」
素人にはよくわからないが、長年重職にある猊下のいう事に間違いはないのだろう。
「ということだから、散歩に行こう。ずっと部屋に籠っていては気分が塞ぐ」
「……はい、猊下」
否を言えるような雰囲気ではなかった。
「使徒メイラも良く知っているでしょうが、このあたりではエリカの木立が有名ですよ」
「ああ、来る途中に見たよ。燃えるように赤い見事な並木だった」
有名どころの観光地について、ああでもないこうでもないと語り合う二人の姿は、かなり能天気すぎるのではと思わざるを得ない。
しかし逆を言えば、気を張っている彼女への気遣いなのかもしれなかった。
「少し歩くから、温かい服装をしておいで」
「久々にクリスマスローズの群生地を見に行きたいですな」
ふたりの温かな表情を見ていると、疑ってかかる己がなんとも卑しい気がして眉が下がる。
メイラは食事を終え口元をナフキンで軽く押さえながら、気づかれない程度に顔を伏せた。
猊下たちのどこに気を付ければいいのだろう。何に油断してはいけないのだろう。
例えばそれが、好意を寄せるなとか、約束事をするなとかいうことであれば、一介の小娘には難しいと言わざるを得ない。
「もう少し食べたほうがいいのではないか? 愛しい子」
具体的なことは何も言わなかった父を恨みながら、気遣わし気な猊下の問いかけに複雑な笑みを返す。
基本的に人間の善性などあてにはならないと思っているメイラだが、一度信じると決めた人間のことはなかなか疑えない気質を自覚してもいた。
「これから寒くなる。体力を蓄える為にももっと沢山食べなさい」
聞き慣れた師の懐かしい台詞に、以前であれば「冬眠する熊じゃないんですから」と答えていたところだ。
疑える要素のまったくない好々爺然とした顔を見ながら、どこかで緊張していた心が緩み、本心からの笑みが唇に浮かんでいることに気づいた。
いつの間にか、ふたりの穏やかな空気感に巻き込まれている。
そしてそれは居心地がよく、不安に揺れるメイラの精神を限りなくフラットに落ち着けてくれる。
ちらり、と何かがわかったような気がした。
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