3

 天蓋布で覆われた寝台で、メイラは例のごとく一人丸くなっていた。

 両膝を抱え、ふかふかのベッドに沈み。頭まで羽毛の掛布を被って、閉じこもる。

 体温によりジワジワと温もっていく閉ざされた空間とこの暗さが、どこまでも落ち込んでいく気持ちをわずかに慰めてくれる。

「御方さま、旅の疲れが出たので、晩餐はご遠慮させて頂くと伝えてまいりました」

 垂れた布越しに、ユリの気づかわし気な声がする。

「お食事はいかがなさいますか? 温かいスープだけでも」

 大人なのだから、きちんと答えなければと思う。

「御方さま? お休みですか?」

 ただ今だけは、寝たふりをするのを許してほしい。

 気を使って足音を潜め去っていくメイドの気配を負いながら、メイラはぎゅっと瞼を固く閉ざした。

 昔から何かあったらこうやってベッドの中に籠って耐えた。

 そうすれば、大概の事は乗り切れた。

 今回のことだってそう。大丈夫。きっと大丈夫。

 何度も自身に言い聞かせる。

 鼻の奥がツンと痛み、ひくりと喉が鳴る。

「……へいか」

 いつだって助けてくれる大人はいなかった。

 むしろ自分より小さな子供たちの面倒を見ていたので、頼られることの方が多かった。

 しかし、いろいろな理不尽に耐えてきたが、今回のように、直接命に障るような事はなかった。

 怖い。

 温かいはずのベッドの中で、小さく震える。

 助けて、誰か助けてと、心が悲鳴を上げる。

 またあの時のように、冷たい石の小部屋に押し込められ、今度こそ殺されてしまうのかもしれない。

 恐ろしくてたまらなかった。

「ハロルドさま」

 お守りのように、ひたすら夫の名前を呼ぶ。

 しっかりしなければならないと分かってはいても、力のないただの女にすぎないメイラには太刀打ちできない事態だ。

 祖父と名乗る教皇猊下が守ってくれるという。きっとその通りにするのが一番いい。

 しかしどうしても、陛下のいるこの国から離れたくなかった。

 コンコンコン

 丁寧なノックの音が聞こえた。

「失礼します」

 再び、ユリの声だった。

 入室してきた彼女が近づいてくる気配に、メイラは一層小さく丸まり、深くベッドに沈み込む。

「ハーデス公爵閣下がお越しです。お会いになられなられますか?」

 会いたくなかった。

 正直言って、ユリにすら話しかけてほしくはなかった。

「あっ! 困ります!!」

「ええい、まどろっこしい! 娘の部屋だ、かまうまい」

 短気な父の声が聞こえた。

 言葉の乱暴さとは裏腹に、近づいてくる足音は静かだ。

「寝てなどおらんのだろう」

 やがて、しっかりと閉ざされた布越しに不愛想な声がした。

「まあよい、そのまま聞け。猊下のお申し出はお断りしておいた。お前の身はこのハーデス公爵家が守る。傷ひとつつけぬ」

 優しさの欠片もないぶっきらぼうな口調だったが、それを聞いた瞬間、メイラの双眸からぼたぼたと涙があふれた。

「……っ」

「余計な心配はするな。不安そうな顔もするな。お前は陛下の妃であり、このハーデス公爵の娘だ」

 はっきり娘だと明言されたのは初めてかもしれない。

 長年疎遠で親しみなど持ちようもない間柄だったが、少しでも情のようなものは持っていてくれたのだろうか。

「今宵はゆっくり休むがよい。だが明日の朝は猊下にご挨拶をし、晩餐のお誘いに応じれなかったことを直接詫びよ。隙を見せるな。毅然と顔を上げて笑って見せよ」

 隙? どういう意味だ?

「気を許すな。一筋縄でいく方ではない」

 メイラはもそりと身動きした。

 父の本意を知りたくてその顔を見ようとしたのだが、それより先にさっさと立ち去られてしまった。

 布越しにわずかに見えるその小さな背中を、呆然と見送る。

 しばらくの間、ベッドに手をついて半身を起こしただけの姿勢で、閉ざされた扉をぼんやり見ていた。

 次第に回り始めた頭で、今父に言われたことを考える。

「……どういう事?」

 現実はメイラに優しくないと知っている。これまでも散々人に騙され、裏切られてきた。

 しかし、あの話の内容が嘘だとは思えない。

 それは、神職にいる者が云々という理由ではない。メイラが関わるにはあまりにも壮大な内容過ぎて、むしろ嘘には聞こえなかったのだ。

 まっすぐにこちらを見つめ、真摯に告げられた言葉を思い出す。

 父と並べてどちらを信用するかと問われると、百人に聞けば百人猊下のほうに軍配を上げるだろう。誰だって悪人顔の老人よりも、爽やかで誠実そうな聖職者を選ぶ。

 しかしメイラの心の奥底に、ちらりと危惧が過った。

 話の内容自体は、父も否定はしなかった。狙われているのも事実なのだろう。

 では何が問題だ?

「……フラン」

「はい、御方さま」

 ずっとそばについてくれているフランが、即座に反応した。

「ルシエラを呼んで」

「はい」

 どこかほっとした様子で頭を下げるメイドに申し訳ない気持ちになりつつも、メイラは己の気分がかなり浮上してきたのを感じていた。

 フランが部屋を出て数十秒もしないうちにルシエラが入室の許可を求めてきた。壁際に控えていたキンバリーが、素早く相手を確認して扉を開ける。

「失礼いたします」

 案内してきたフランが、天蓋布を上げてタッセルを結わえた。

 胸を手に当てる女官の礼を取っていたルシエラが顔を上げ、まじまじとメイラを見て顔をしかめる。

「……お顔を拭くものを」

 彼女がフランにそう命じるのを聞いて、みっともなく泣いたばかりなのを思い出した。

「ああ、擦ってはいけません。赤くなります」

 すかさずベッドの際まで寄ってきたユリが、そっとメイラの腕に手を置いた。

「坊主どもに何か言われましたか?」

 あまりにも低く平坦なルシエラの声に、ぎょっとした。

 目を見開いた瞬間に、残っていた涙がぼろりとこぼれ落ちる。

「噂をばら撒いてきましょう。幼女趣味だとか、男色だとか、賭博好きだとか」

「やめて」

 恐ろしい事を言い始めた女官に、慌てて首を振る。

「神殿を敵に回すわけにはいかないわ」

「ご心配なく。陛下も今の御方さまのお顔を見られれば、賛成してくださるはずです」

「ルシエラ」

 窘めると、ものすごく不服そうな顔をされた。

 普段彼女はツンと澄ました冷ややかな印象だが、その実表情豊かなのだと思う。多少その……行き過ぎるきらいはあるが。

「貴女に聞きたいことがあるの。正直に答えて」

「はい」

 こっくりと首を上下させる彼女の正体は、最初から分かっていたことだが、女官ではなく憲兵士官だ。話せない内容もあるだろうし、あえて話していないこともあるのだろう。

 しかしひとつだけ、どうしても聞いておきたいことがある。

「わたくしがここへ送られてきたのは、誘拐されたことを誤魔化す目的だけではなく、後宮での安全に不安があるからなの?」

 ぱちり、と彼女の長いまつげが上下した。

「陛下の御命令なの?」

 そもそも攫われた時点で、安全とは言えない。あらかじめわかっていれば、油断しなければ、という問題ではない。そもそも後宮近衛とは、妃たちの身を守るために備えているはずだからだ。

 ルシエラは口をつぐんだまま答えなかった。

 しかしそれこそが、メイラの求める答えだった。

「……そう」

 陛下は後宮が危険だと判断したのだ。狙われたメイラを守ることは難しいと。

 あの腕の中に帰りたいと思うことは我儘なのか。やはり中央神殿に行くべきなのか。

「後宮はこれまで陛下が無関心であったということもあり、無法地帯に近いのです。掃除が済むまでしばしお待ちください」

 掃除って。

「どこに裏切り者が潜んでいるか定かでない場所よりも、ハーデス公爵家のほうが安全だと判断されました」

 ルシエラの女神像のように整った表情が、わずかに曇る。

「本当は話してはならない事ですが、御方さまのご移動にあわせて、影者も大勢動いております。大勢の目が御方さまを見守っております」

「それはそれで怖いのだけれど」

「ご安心を。入浴中や就寝中などは女が担当することになっています」

「ちょっとまって、お手洗いも見張っているとかそんな」

 返答はない。

「な……んてこと」

 メイラはわなわなと震えた。

 閨を覗かれている危惧はあったが、小用も見られているとか、嫌すぎる。

 瞼から一気に涙が消えうせた。泣いている場合ではない。

「話し合いが必要だわ」

 もちろん安全が第一だ。この身のすべては陛下の為のもの。何人にも害されるわけにはいかない。

 しかしそれとこれとは話が別だ。

 せめて、人間としての尊厳は確保しておきたい。

 キッと顔を上げ、表情筋の仕事量が少ない女官の顔を真正面から見つめた。

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