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これは、誰だ?
リヒターは入室してきた女性の圧倒的な存在感に驚愕した。
薄紫色のシンプルなドレスは、鳩尾あたりに切り替えのあるエンパイアタイプで、華奢な体格の女性が着ると悪い意味で幼く見えるものだが、メイドに傅かれ薄暗い食堂に足を踏み入れたその姿に、少女のような、という形容詞は相応しくない。
間違っても平凡だとか、容姿が劣るだとか、そういう表現ができる相手ではなかった。
その場の空気を一瞬にしてさらってしまう、場違いなほどの優美さとノーブル感。
黒いレースのベールが喉元まで垂れ、その容貌をはっきりと見てとれるわけではないが、彼女がそこに居るだけで誰もの視線を釘付けにし、そこかしこから感嘆符付きのため息がこぼれるだろう。
……絶対にあの黒髪の妾妃殿ではない。
むしろ素朴な雰囲気だった少女を思い出し、ではここに居るのは誰だろうと傍付きたちの顔を思い浮かべる。
護衛の騎士たちは軒並み女性にしては体格が良く、メイドたちも彼女に比べると長身の者ばかりだった。小柄で華奢な妾妃殿に扮することが出来る者などいただろうか。
「……リヒター提督?」
マイン一等女官の、控えめだが効果抜群の声掛けがなければ、歓迎の為に立ち上がった姿勢のまま無様な様をさらしていただろう。
はっと我に返り、狭い士官食堂を見回す貴人に背筋を伸ばす。
「ようこそ、御方さま」
「提督」
柔らかで優し気な声が耳朶に響き、危うくうっとりと聞きほれそうになってしまった。
「お加減の方はいかがでしょうか? 晩餐を共に頂く栄誉を賜り、まことにありがとうございます」
「お気遣い感謝します」
流れるような美しい所作で礼を返され、その過不足ない頭の下げ方に感心する。
確かに彼女は皇帝陛下の愛妾であり、高位貴族の娘でもあるが、リヒターより極端に上位者という訳でも、また逆に礼を尽くさなければならないほどの下位者でもない。
どちらの態度を示してもどこかに角が立つ難しい相手なのだ。
「……そちらが御父上が行方不明だという商家の方ですか?」
「はい。お初にお目にかかります。クリスティーナ・ホーキンズと申します」
「お船のこと、お悔やみ申し上げます。御父上が無事見つかるとよいですね」
クリスティーナは楚々とした態度で妾妃殿と挨拶を交わし、なかなかの態度で相対している。
やはり作法に不安があるというのは口実だったのか。その後の食事になっても、彼女のマナーにおかしなところは全くない。
むしろ、貴族の女性といっても誰も疑わないほどに洗練された仕草であり、逆に商人階級の娘としては堂々とし過ぎているようにも見えた。
「あの、不躾だとは思うのですが」
食事も中盤にさしかかり、主に二人の女性間での会話が和やかに進む中、おずおずとクリスティーナが言葉を発した。
「そのベール、お食事に邪魔ではないですか?」
メインの鶏肉を口に入れたところだったリヒターは、危うく噴き出しそうになってしまった。
ごく一般的な貴族の女性であれば、もちろん会食中にベールなど付けたりはしない。しかし、今回のように極端に身分差がある相手と同席している場合など、つけていたからといってマナー違反になるわけではない。
それについて質問をするクリスティーナの態度こそが相応しくなく、不作法なものだった。
「……夫に素顔を晒すなと」
おっとりと笑みすら含んで答えた妾妃殿に、クリスティーナはショックを受けたように口元を手で覆う。
「そんな、ひどい」
「ひどい?」
「あまりにもひどいお言葉ではないですか! 御方さまにずっと顔を伏している様に命じるなどと!」
「クリスティーナ!」
あまりの無礼に席を立って制しようとしたリヒターの視界に、氷の女官殿がさりげなく手を振ってそれを止めるのが見えた。
「ごめんなさい、ジークさま」
潤んだ琥珀色の目が、上目遣いにリヒターを見つめ、じんわりと涙を浮かべて伏せられた。
「陛下に対して無礼であるとは承知しております。ですが、心無いお言葉と共に遠ざけられる御方さまのことを思うと」
「いや、ち」
「わたくし、悔しくて」
違う、と言おうとしたリヒターの手に、クリスティーナのほっそりとした白い指が触れた。
「いくら異国風のほっそりとした御容姿をされていても、暗い髪の色をなさっていても、ハーデス公爵さまのご養女さまなのでしょう? あまりにもひどいではないですか」
悔しい、といいつつ、陛下のお好みだとされる女性らしいふくよかさや、鮮やかな金髪とは程遠い髪色を貶しているように聞こえるのは気のせいだろうか。
「わたくし、陛下にお遭いする機会がありましたら文句を言ってやりたいですわ!」
いや、普通に無礼打ち案件だから。
陛下はこの手の問題は無視してやり過ごすタイプだが、それが衆目の中であったり、あまりにも悪質なものであったりすれば、陛下ではなくその周囲が黙ってはいない。
「……あらまあ」
さすがにもう口を閉ざしているように言おうとしたところで、不意に、くすくすと甘い含み笑いが耳に届いた。
「面白い方ね」
給仕の服装をしたメイドが注ごうとしたワインを優美な手の動きで制止して、妾妃殿はベール越しにわかるほど表情をほころばせて笑った。
「心配してくださってありがとう」
「いえ!」
「ですが、おいそれと陛下をご批判するようなことを言ってはいけないわ」
「はい、御方さま」
クリスティーナはぎゅっと下唇を噛み締め、従順に頷く。そのおくれ毛がランプの明かりを弾いて、ほっそりと色香のある首筋に影を落としている。
ふと、その襟足にあるボタンに視線が集中した。
淡いクリーム色の上品なナイトドレスには、レースがふんだんに使われていて、波打つようなフリルが体形の補正ではなく、むしろ女性らしい凹凸を魅力的に引き立てている。
その、布と布の隙間。
着脱の為というよりも、飾りの為のボタンは少し大きめで、繊細な彫りが施された花柄のものだった。
ただし、真っ白な。
リヒターは咄嗟に、彼女に触れていた手を離した。
その部分から何か良くないものが伝わってきた気がしたが、それを言葉で表現するのは難しい。
誤魔化すようにワイングラスに手を伸ばし、大きな目でこちらを仰ぎ見たクリスティーナに甘く微笑みかける。
「穏やかでない話はやめておきましょう。ほら、君も飲むと良い。美味なワインだ」
じろり、と睨まれた。言わずと知れた女官殿からだ。
クリスティーナから話を聞き出したいのであって、如才ない社交をしているわけではない。会話を遮るような真似はするなと言いたいのだろうが、それより先にコレを見てほしい。
「スパークリングは、航海中に気が抜けるから普段はあまり飲まないのですが」
リヒターはワインをテーブルに戻し、さりげなく首の後ろを掻く仕草をした。
トントンと脛骨を指先で叩いて見せると、ワインボトルを手に男装したメイドが近づいてくる。
メイドにしておくには背が高く、おそらく護衛役も担っているのだろう彼女が、まずはリヒターのグラスに、次いでクリスティーナにも穏やかに微笑みかけながらワインを注ぐ。
クリスティーナの視線がグラスに向いた隙をついて、リヒターは再び彼女の首筋に目を向けた。
同様に、いくつかの視線がそこに向けられるのがわかった。
「ほんとう。美味しいです」
クリスティーナが邪気のない美しい笑顔を浮かべた。
ベールの向こうで、妾妃殿も微笑んだのが伺えた。
「こんな美味しいワインを飲むのは初めてです。御方さまは、ワインがお好きなのですか?」
「嗜む程度に」
「……そうですか」
続く晩餐の雰囲気は、むしろ和やかで会話も弾むものだったのだが、何故か食欲が進まなかった。
リヒターは普段であればぺろりと平らげたであろう食事を苦労して飲み込み、次第に親し気になっていく二人の会話に口を挟まずじっと聞き入った。
尻の下がぞわぞわするのだ。
この場に居てはいけないと、すぐに逃げろと本能が言う。
何かがおかしかった。
それは、リヒターだけが感じているもののようで、クリスティーナはもとより、部屋にいる誰もが平然とした顔をしている。
「ジークさま?」
不意に、彼女が再びリヒターの腕に触れた。
ぞわり、と全身にしびれが走った。
「お顔の色が悪いですわ、提督。酔われましたか?」
テーブル越しに、妾妃殿が気づかわし気に言う。
そうかもしれない。そう答えようとしたが、言葉が出ない。
不意に、腕の動きが制御を無くした。他ならぬ己自身の手が、テーブル上の皿を乱暴に薙ぎ払う。
「……提督!」
護衛役として壁際に立っていたグロームとディオンが、弾かれたように歩を詰めてきた。
どうなっていると恐慌状態に陥り、必死で腕を押さえようとしたが、痙攣をおこしたかのように自由が利かない。
それなのに、何故かナイフを掴んでいた。
食事用のナイフなので、切れ味はさほどのものではない。しかし男の力で振り回せば十分な凶器になる。
リヒター自身を含め、誰もがこの凶行に浮足立っていた。
なんとか動きを止めるべく、部下たちが彼を床の上に引き倒し、押さえつける。
その手からナイフが離れたことに、何よりも安堵したのはおそらく自分自身だ。
「……やっぱり」
不意に、場違いに静かな声が響いた。
「貴女はメイラじゃないわ。誰?」
リヒターは床の上から、マイン一等女官にテーブルの上に押さえつけられているクリスティーナを見上げた。
「おかしいと思ったのよ。陛下があの子みたいな不細工をご寵愛になるはずがないもの!」
何事が起っているかを正確に理解できている者がいるのだろうか。
ただ、ベールを引きちぎられた妾妃殿だけが静かに椅子に腰を下ろしたまま、不思議そうにコテリ、と首を傾げる。
結い上げていた長くて美しい黒髪が滑り落ち、ドレスの胸元でふわりと揺れた。
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