6
「……よく似た別人の可能性はないかしらと願っていたのだけれど」
この場で唯一椅子に座ったままのそのひとは、おっとりと穏やかな口調で言った。
「やはり貴女なのね、クリス」
照りのある鮮やかな色の唇から零れたのは、静かに凪いだ優し気な声色。
間違いなくそれは、今高熱で寝込んでいると聞いていた妾妃殿のものだった。
幾分しどけなく見えるのは、まだ熱が残っているからか。未だ年若い少女だと思っていたが、化粧をすればまぎれもなく成人女性。淑女といってもいい雰囲気の嫋やかな人だった。
しかも、あの平凡顔をどうすればここまで彩れるのか。
ベールの下から現れた容貌は、確かに華やかさには欠けるかもしれないが、お世辞抜きに美しかった。
短かった黒髪に付け足しているのは付け毛だろう。複雑に編み込んだ髪を彩るのはいくつかの髪飾り。黒い小ぶりなイヤーカフから垂れるキラキラとした細い銀鎖が、小さく可憐な耳たぶを包み揺れている。
クリス、と呼びかけられてしばらく唖然としていたクリスティーナだが、やがて何を思ったか鋭く息を吸い込んでガラスを釘でひっかくような甲高い声を上げた。
「気安く呼ばないでちょうだい! 売春婦の娘が!!」
耳の奥がキーンとした。
あのクリスティーナが、十人いれば十人振り返るであろう美しく淑やかな美女が。
吊り上がった目じり、むき出しになった歯。ギリリと軋む奥歯の音。
見ていた男どもがぎょっとするほどの面相になって妾妃殿を睨み上げている。
静まり返ってしまった室内で、小さくため息をついたのは妾妃殿だった。
「わたくしの知っている限りでは、母は春を売るようなお仕事はしていませんでした」
「街中の人間が言っているわよ!」
「噂にすぎないわ」
「事実でしょ! 痛い! 痛いわよっ」
「口を慎め、無礼者!」
鋭い鞭のような声と同時に、クリスティーナの口から更なる悲鳴が上がった。
マイン一等女官殿が机の上で押さえつけていた彼女の腕を、少々ありえない方向に捻ったようだ。
「……ルシエラ」
幾分疲れたような妾妃殿の声を聴いて、驚いたことに、あの無表情でツンとした女官殿が珍しく不服そうな顔をした。
「手を放してあげて。これだけの目があるのだから、乱暴しなくても大丈夫よ」
「まあ余裕ね! さすがは陛下を騙し篭絡しただけはあるわね!」
「貴女が何を聞いて、こういう事をしているのか理解に苦しむのだけれども」
手首を彩るレースから、ドレスと同色の布が垂れている。その腕が優美に動いて、いつの間にかメイドから受け取った扇子をそっと口元で広げた。
「少なくとも、状況が良くない事はわかっているわよね?」
「それはあんたの方でしょう!」
片やテーブルの上で無様に押さえつけられた女。
片や、最高級のもので身を包んだ所作も美しい高貴な女性。
その差は傍目にも歴然としていて、これまで文句なくクリスティーナを美しいと思っていたリヒターでさえ、比較のしようがないと思ってしまった。
「どういう意味かしら」
「捨てられる寸前のくせに!!」
あまりにも予想外の中傷に、沈黙が落ちた。
それを図星と取ったのか、女官殿に押さえつけられたままクリスティーナは耳障りな声で嘲笑した。
「どうせあんたみたいな不細工な地味女なんて、陛下も本心ではお嫌いに違いないわ!」
再び腕を捩じられて、見苦しい悲鳴が上がる。
唖然としていた妾妃殿が、困惑したように頭を左右に揺らし、やがて小さく溜息をついた。
「……そうなのよねぇ」
仲が良さそうとはお世辞にも言えないが、古い顔見知りとの再会に気持が緩んだのかもしれない。
妾妃殿の口調は先ほどまでの声をかけるのも憚る雰囲気から離れ、本心からとわかる困惑に彩られていた。
「後宮には、わたくしなど及びもつかない美しい方が沢山いらっしゃるの」
目がつぶれそうな女神の如き容姿の方もいらっしゃるのよ、と内緒話をするように囁く声は、年相応の少女に見えた。
「それなのにどうして陛下がここまでお心を掛けてくださるのか、よくわからないのよ」
「……馬鹿にしてるのっ!!」
「ねぇ、クリス」
真っ赤になって怒鳴るクリスティーナを静かな目で見つめて、妾妃殿は揺らしていた頭をまっすぐにした。
「貴女は何がしたかったの?」
「わたしがあなたの代わりに後宮に上がるはずだったのよ!!」
は? と思ったのはリヒターだけではないだろう。
「わたしが陛下の御寵愛を得るはずだったのよっ!!」
髪を振り乱し、テーブルの上でもがく女を誰もが呆然と見ていた。
こんな女を陛下が寵愛なさるとは思えない。誰もの統一した考えだった。
いや、誰もというのは語弊がある。クリスティーナが睨む相手だけは何故か納得したように何度か頷き、見間違えでなければ、ほんの少し申し訳なさそうな顔をしたのだ。
「貴女は昔から美しかったもの。街中の男たちが貴女に夢中だったわ」
「そうよ!」
テーブルの上に押さえつけられているというのに、ツンと誇らしげに顔を上げる。
「陛下の妾妃を領内から選別すると内々のお達しがあったから、わたしは裕福な商人の家の養女になったのよ!」
「そうよねぇ、確か貴女のお父様は騎士だった」
「もっともっと美しく磨き上げれば、きっとわたしが選ばれるはずだった! それをあんたがっ!!」
見当違いの憎悪を向けられれば、普通の人間であれば多少はひるむ。
しかし妾妃殿はまったく堪えた様子もなく、むしろ小さく苦笑した。
「父は、むしろ陛下の寵を得ない女をお望みだったのよ」
口元を隠していた扇子をパチリと閉ざして、崩れてしまった髪形を手早く直したメイドにさり気ない感謝の視線を向ける。
「まあそれはいいわ。それよりも、貴女には聞きたいことが山ほどあるの」
再び身なりを整え終えた妾妃殿は、もはやベールで顔を隠してはいない。クリスティーナに破かれたからであるが、むしろだからこそ、おとなしそうに見えて芯のあるその表情がよく伺えた。
「特にその、真っ白なボタンのことね」
「きゃあっ!!」
テーブルの上で、悲鳴が上がった。
クリスティーナを押さえつけていた女官殿が、容赦なくその首の後ろにある飾りボタンを引きちぎったのだ。
「何するのよ!」
「……見ているだけでも気分が悪いわ」
マイン一等女官は気づかわし気な視線を妾妃殿に向けてから、白い布巾越しに掴んでいたボタンを女騎士が持つ銀のトレイに落とした。
布越しでも長く持とうとはせず、一度として直接手に触れようとはしない。
「それは、何?」
響く妾妃殿の声は静かだった。
「貴女は、自分していることをわかっているの?」
化粧をしていない素顔の時には、ただの凡庸な少女にしか見えなかった。
美しく装えば、近づくのを躊躇うような独特の空気を身にまとっているが、当初の印象の通り、温和で優し気なのはそのままで。
「貴女の身に着けていたソレは、ただの道具ではないわ。貴女自身をも蝕むものよ」
しかし、詰問する口調は静かでも、思わず首をすくめてしまいそうな雰囲気があった。まるで、決して逆らえない相手に叱られているかのような。
「な、なに……」
白い飾りボタンが奪われたと気づいた瞬間、クリスティーナの表情に顕著な反応が出た。
真っ赤になり、次いで真っ青になり。
「クリス?」
妾妃殿に呼びかけられる頃には、顔色が真っ白になってガタガタと震え始めたのだ。
女官殿の手が少し緩んでいたのは、偶然だろうか。
クリスティーナはありえない勢いで彼女を突き飛ばし、テーブルから転がり落ちた。
「御方さま!」
素早くメイドが妾妃殿の肩を支え、椅子から引っ張るように立たせた。
瞬きひとつする間に、三人の女騎士がクリスティーナと妾妃殿を遮る位置に陣取っている。
「お前、お前がぁぁぁぁぁっ!!」
あの愛らしく美しいクリスティーナはどこに行ったのか。
リヒターは部下たちに床に拘束されたまま、栗色の髪の女が自身と同じ体勢で床に組み伏せられるのを見ていた。
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