3
最近ものすごく気になっていることがある。
ユリたちの度を越した過保護だ。
小さな窓から見える青い海に向かって、メイラはため息をついた。
ほら、今もため息ひとつに反応して、どうしたのだろうとこちらを観察しているのがわかる。
主人の意をくみ、過不足なく仕えるのが彼女たちの仕事なのだろうと思うが、やりすぎではないか。
ほんの少しの不快感や違和感も排除され、心地よい空気が構築される。それは、メイドとして彼女たちの技量が優れているという事なのだろう。
しかし、人に傅かれるような育ちではないメイラにしてみれば、その気遣いを察するたびにものすごく申し訳なく感じてしまうのだ。
彼女は己がそんな扱いに相応しい人間ではないと知っている。清貧を旨とする修道女として育ち、埃と汗にまみれて子供たちを守り神に仕えてきた。どちらかというと人に仕えてもらうより、仕える側の人間だ。
再びこぼれそうになった溜息を飲み込んで、カップを置いた自身の手を見下ろした。
一か月前にはひどく荒れ、常に手袋をしていないと貴族の女性とは名乗れない有様だったのに、今ではあかぎれどころか乾燥すらしていない。ピカピカに磨かれた爪は美しいオーバルに保たれ、先ほどまで盛装していたのでまだ華やかな色合いに染まっている。
こういうことも、いつか当たり前だと思うようになるのだろうか。
「……お疲れですか? 少し横になられては」
ほら、少し瞼を伏せただけで気を使ってくれる。
メイラは目を開け、足元で膝をついているフランの顔を見下ろした。
「あなた達も休憩してね」
メイドは交代制とはいえ、超長時間勤務だと思う。メイラが寝ている時間は休んでいるというが、夜間は常にフランが不寝番をしているので、きっちりと三交代制の近衛騎士とは違いハードな二交代制だ。特に人員が少ない今の状態ではシフトに余裕がないのは仕方がないのかもしれないが。
ドンドン!と踵を慣らす音と共に、トレイに食事を乗せたユリとシェリーメイが戻ってくる。
詳しく聞いたわけではないが、乗組員たちとは別口で用意されたものらしく、豪勢とまではいえないが彩り豊かで、メイラには十分な量のものだ。
貴族では日に三度の食事が基本だが、市井育ちのメイラは長らく二回だったので、昼食はごく少量である。
ユリは、ブランケットを膝に掛けられたメイラの姿を見て、眉間にしわを寄せた。
「御加減が? お医者様をお呼びしましょう」
今回の旅には、例の、メイラの口の中に手を突っ込んで吐かせてくれた御殿医師が同行している。たいして揺れもしない大きな軍艦でも、酔う人は酔うようで、乗船した直後から寝込んでいるとか。……本当に申し訳ない。
「少し眠いだけよ。大丈夫」
「横になられますか?」
「いいえ。折角用意してくれたのだから、いただきます」
サッハートを出航してからすでにもうかなりの時間が経過していた。
昼食の時間はだいぶん過ぎているし、これ以上遅くなったら夜の食事に障るだろう。
今夜の晩餐には、リヒター提督からの招待を受けていた。艦に客が乗船したらホストとして指揮官が会食を催すのが伝統なのだそうだ。
甲板上にずらりと並んだ屈強な男たちを思い出すと、ぶるり、と背筋に悪寒が走った。
もちろん、気が進まないからと言って断ることはできない。社交とも言えないお付き合いだが、この程度は笑顔で乗り切らなければ。
風味が良いパンを口に運びながら、こぼれそうになる溜息を堪えた。
あまり食欲がわかない。
折角用意してもらったのだからと、半分ほどは頑張ったのだが、それ以上はどうしても進まなかった。
晩餐でそれなりに振るまうためにも、今は食べないほうがいいのかもしれない。
申し訳ない気持ちになりながら手を置くと、案の定ものすごく心配された。
「横になってください。お顔の色が優れません」
そう言われ続けたら、なんとなく眩暈がひどくなってきたような気がした。
「……そうね」
メイラは物憂げにそう言って、促されるままに続きの寝室へと移動した。
寝室は、はっきり言ってしまえばものすごく狭かった。
限られた軍艦の内部なので、部屋とは別に寝室があるだけ恵まれているのだろうが、メイラが育った修道院の個室よりも狭そうだ。
しかし内装はしっかりしていて、壁は保温のために分厚い布張りで、ベッドも肌触りの良い高級品が置かれていた。
メイドひとりと護衛が入ると満員になる小さな部屋は、むしろメイラにとっては安心できるものだった。
横になって、左右に迫る壁が見えるこの手狭勘が良い。沈み込むマットレスの心地よさに目を閉じると、分厚い掛布をそっとかけられた。
眠気が襲ってくるのはすぐだった。
ばたばたと誰かが走り回る音が頭の上あたりで聞こえる。
目を開けて、咄嗟にどこに居るのかわからず不安になったが、すぐに思い出した。
晴天が続くと言っていたので、ほとんど揺れないはずだが、横たわっているとかすかな振動が伝わってきた。
耳を澄ますと、聞こえるのは怒声。
尋常ではないその調子に、跳ね起きようとした。
ぐぐっと船体が傾ぐのを感じた。
枕の横に付いた手がガクリと折れ、顔面からベッドに突っ込んでしまう。
「御方様!!」
寝室の重そうな扉が開き、外で控えていたらしいユリの声がした。
慌てたように助け起こされ、怪我などがないか手早く確認される。
「……なにが」
「大型の座礁船が無人島に打ちあがっているとか。海賊がいるかもしれないので警戒態勢にはいっているそうです」
「この艦隊に敵対できる海賊がいるの?」
海賊が大帝国の艦隊に敵対行動を取るとは思えない。良く知らないメイラでさえ、大型戦艦三隻とそれを取り巻くブリケート艦軍団を過剰戦力ではないかと思う。
そもそも妾妃程度を送迎するためにあるものではなく、他国の軍艦やそれこそ海賊を仮想敵にしてきた集団なのだ。
「詳しいことはまだ報告がありませんが、数日前にこの海路を通過した時にはまだ船は打ち上がっていなかったそうです。生存者がいる可能性があるとか」
「……そう」
「半日程度の海域探索を願い出てきましたが、却下しておきました」
生存者がいるのであれば、助けないといけないのでは? そう思い眉を寄せたメイラの両手を、ベッドの脇に両膝をついたユリがぎゅっと握った。
「恐れながら、御方様の安全の方が最優先です。お命を狙われている可能性がある限り、わずかな隙も見せるべきではありません」
「それでは、わたくしはここで大人しくしているわ。部屋から出なければ安全でしょう?」
「なりません」
本心を言えば、メイラごときの為に船一隻を座礁させるとは思っていなかった。
近海用の漁船でも、一般市民には手が届かない金貨を積まなければ持てない。大型の船舶であれば尚更だ。
きっと座礁船と出会ったのは偶然で、彼らにとってはまたとない幸運なのだろう。
海賊に追われて座礁してしまったのだとすれば、この艦隊に巡り合ったことを神に感謝したはずだ。
「見捨ててしまえば、また海賊に襲われるかもしれない。リヒター提督の判断にもよるけれど、無辜の人々を放ってはおけないわ」
ユリは、そう言われるのをわかっていたような顔をした。それでもきちんと報告してくれた事に、メイラは励ますように頷く。
「提督には、一任しますと伝えて。わたくしが居てはお邪魔でしょうから、いい子でじっとしていますと」
文字通り伝えられたら皮肉に聞こえるだろうか。
「そうね。軍人としての義務を果たし、臣民を守ることを優先せよ……とでも」
「提督の義務は、御方様を無事ご実家までお連れすることです」
「罪のない非力な民を守ることも、彼らの義務だわ」
市井で育ったからこそ、軍人とはそうあってほしいと思うのだ。
メイラの言葉に、ユリはちいさく肩を落とした。
「迷惑をかけてごめんなさい」
「御方様が謝罪なさることではございません」
逆にぎゅっと彼女の指先を握り返すと、ユリはメイラの手の甲に額を押し当てた。
「護衛の数は限られておりますが、万全を期すよう皆で務めます」
その、決意を込めた表情に、「あれ」と小首を傾げた。
単なる救助活動、せいぜい半日の捜索だと思っていたのに……違うの?
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