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 ものすごく手間のかかった衣装を解くのは、想像ほどには時間はかからなかった。

 メイラはほとんど座っているだけでよかったし、装飾品が外されてしまえば、自分でも脱げそうな軽くシンプルなドレスだ。

 もちろん、メイドたちの仕事を奪うようなことはせず、黙って脱がされるに任せる。

 下着姿になって、次に着せられたのは、すみれ色の室内着だった。室内着とは、いわゆるコルセットのような補正具がほとんどないドレスのことで、身分のある女性が普段家の中で着ているものだ。

 来客や晩餐には適さないが、形は正式なドレスに近く、コルセットで締め付けられていないのでかなり楽な服装である。

「失礼いたします」

 例のドンドンと踵を慣らす海軍式の立礼は、どうやらノックの代わりでもあるらしい。

 ようやく慣れ始めた合図にキンバリーが出入り口の扉を開くと、そこからぬっとあらわれたのは巨大な花束を持ったマローだった。

「陛下よりの贈り物です」

「……まあ」

 少なくとも船旅の間はないと思っていた。

 両手で向かい入れてその花束を受け取って、かぐわしく漂う匂いに顔を寄せた。

「陛下にお礼を申し上げる事ができないのがつらいわ」

「お手紙を書かれてはいかがでしょうか」

 微笑むと、マローの顔立ちはぐっと女性らしく優しくなる。

「きっとお喜びですよ」

 メイラに字を教えたのは教区の司教であり、手紙の代書を頼まれる程度には正確に書ける。

 しかしあくまでも市井の者としては、というところで、貴族界でよく用いられる優美な筆記体になると、どうしても苦手意識が高くなる。

「文面を仰っていただければ、代わりにお書きしましょう」

 貴族の中では代筆は当たり前、祐筆という仕事まであるぐらいだから、マローに代わりに書いてもらっても何ら問題はないのだろう。

 しかし、愛する夫への手紙を、誰かに代わりに書いてもらうというのは抵抗があった。

「……いいえ、自分で書いてみるわ。レターセットはあったかしら」

「はい、こちらに」

 ユリがサイドボードの引き出しから取り出したのは、薄紫色の小花が透かし模様になった便箋と、同色の封筒だった。

 言ってすぐ出てきたことに戸惑っていると、有能なメイドがにっこりと有無を言わせぬ感じで微笑んだ。

 疑問を持ってはいけないらしい。

 おそらく貴族の旅行の支度に含まれるのだろうと納得し、受け取った。

 陛下にお渡しする手紙の形式など、出だしからどう書けばいいのかわからなかったので、そのあたりはアドバイスしてもらう。

 便箋一枚に収まる短いものだったが、清書し終わるまでにものすごく時間がかかってしまった。

「いつ頃どくのかしら」

 おそらくはザガンに寄港した後に出されるのだろう。帝都に届くまで一週間といったところだろうか。

「大至急お届けしますよ。……それより、キンバリーから聞いたのですが」

 美しい薄紫色の封筒に手紙を入れながら、低く穏やかな口調のマローを見上げる。

「リヒター提督に非礼があったようですね」

 小首を傾げると、短い黒髪が頬で揺れた。少し考えて、甲板での悪口にもならない皮肉だと思い当たる。

「……あったかしら」

 とっさに、よくわからないふりをした。

 マローの表情はむしろ優し気と言ってもいいものだが、ニコニコと微笑んでいるのがなんとなく駄目な気がした。

 ユリも、フランも、シェリーメイも笑っていた。

 普段ものすごくツンと冷ややかな表情のルシエラまでもが、いまだかつてない笑顔で顔全体をほころばせている。……怖い。

 唯一笑顔でないのは、二等女官のマロニアだけだった。彼女の引きつった表情がすべてを物語っている気がした。

「何もなかったわ」

 メイラは、はっきりと彼女たちに伝わるようにその目を見ながら言った。

 お願いだから、船旅の全責任を担う提督に喧嘩を売らないでほしい。

 脳裏に過るのは、練度が高そうな海軍の男たち。あんなものを敵に回すなど、いくら有能な彼女たちと言えども荷が重いのではないか。

「海軍ではよく水が腐り腹下しが横行するようですよ。恐ろしいですね」

 ルシエラの含み笑いにぞっとした。

 やめてください。まさか貴重な飲み水を駄目にするなんてことは……

 言外に重犯罪をほのめかす一等女官にドン引きなのは、メイラと常識人マロニアだけだ。

 出入り口で控える後宮近衛たちまで平然としているから、きっと冗談なのだと思いたい。

「わたくしたちも使う水でしょう? 何事もないことを願うわ」

 やんわりと、犯罪行為は絶対にダメと言い聞かせてみたが、ちゃんと伝わっただろうか。

 巨大軍艦に勤務するあれだけ大勢の男たちの腹が下される事を思うと、ぞっとするどころではなかった。

「……そうですね。御方様はほんとうにお優しい」

 違います。あなたが怖いんです。

 いちいちあの程度の皮肉を気にしていては、後宮どころか市井で生きていく事もできない。

 メイラは若干ひきつった笑みを浮かべ、ルシエラから目を逸らせた。

「お茶が冷めてしまいましたね」

 何事もなかったかのように、紅茶を淹れなおしてくれるシェリーメイ。

 絡まりそうな装飾品を丁寧に箱に納めていくユリ。

 その箱を隣室に続くドアの向こうへ運んでいくのはフランだ。

 彼女たちがまったく普段通りに見えるので、ルシエラの不穏な言葉などきっと気のせいだと流しそうになる。

 にっこりと三日月形に瞳をほころばせている一等女官と再び目が合った。

「……絶対だめです」

 どうしてそこで残念そうな顔をする。や、やっぱりなにかする気だったの!?

 メイラは冷や汗の浮いた額を指で抑えながら、こくこくと首を上下させるマロニアに強い仲間意識を抱いた。

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