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 そのあとどうなったかの情報は、メイラの下には全く入ってこなかった。

 気にならないといえば嘘になるが、空気を読んで沈黙を保つ。

 何事もなく時間は過ぎ、艦はあれ以来さほど揺れることもなく停泊状態のようだった。

 日が落ち、約束をしていた晩餐の時刻が過ぎても連絡はない。状況が状況だけに流れたのだろうと思うが、先方からの通知があればメイラに伝えられると思うので、きっと完全に忘れ去られているのだろう。

 メイドも近衛騎士も女官も、ものすごくピリピリしていた。

 メイラがいくら気にしないと言っても、仕える主人が虚仮にされたと感じているらしい。

 本当にかまわないのに。

 むしろ、流れてくれて有難いのに。

 リヒター提督を庇っても逆効果だと分かっていたので、メイラはただひたすら無言で時間が過ぎるのを待った。

 この手の時間つぶしに最適な刺繍は、船上だということでさせてもらえず、流行りの小説だという高価そうな表紙の本をめくるしかなかった。

 こういう時は早めに寝てしまうべきなのだが、夕食もまだだし、昼間少し横になったせいで眠れる気がしない。

 ドンドン!と足を踏み鳴らす音がしたので顔を上げると、フランが手に一人前の食事を持って入室してきた。

「リヒター提督が、申し訳ないが会食は明日にとのことです」

 一番近くに居たシェリーメイの笑顔が、一瞬そのままの状態で停止した。

 壁際の小机で作業をしていたマロニアが弾かれたように顔を上げ、緊張した表情で続き部屋の方を見る。そこで仕事をしているルシエラには聞こえなかったかと安堵の表情を浮かべたが、甘い。彼女に限って、こういうことを聞き逃すとは思えない。

「そう。食欲がなかったから丁度よかったわ」

 隣室まで聞こえるように言ってみたのだが、伝わっただろうか。

 メイラの言葉は聞こえたはずだが、彼女からのリアクションはなく、隣室の廊下へと続く扉が開閉する音がした。

「……テトラ」

 室内での護衛当番だったテトラ・ヘイズの名前を呼ぶ。

「彼女を止めてきて」

「無理です」

 焦りを隠して必死に告げた言葉は、相変わらずの中性的な声であっさりと拒否された。

「私の護衛対象は御方様です。お側を離れるわけにはまいりません」

「……マデリーンを呼んで。今廊下で歩哨中でしょう」

「御方様。天災は人知で止められるものではありません」

 天災って……ルシエラの事?!

「それに、万が一にも御方様に害になるような事はありませんよ」

 メイラは、やたらと自信たっぷりなテトラを呆然と見上げた。

 しばらくそのままの状態でいた後、重なっていた視線がふっと逸らされる。

「一等女官殿はとても優秀な方です。ご安心を」

 安心できないから言っているのだけれど!!

 むしろ自分で止めに行った方がいいのではないかとそわそわしていると、何故か若干耳を赤くしたテトラが軽く咳払いした。

「大丈夫ですよ。今姉があとを追いました」

 さすがはマロー、いつでも頼りになる。

 メイラはソファーの背もたれに体重を預けながら、ほっと息を吐いた。

「御方様、お食事をどうぞ。少しでも召し上がって頂かないと陛下が御心配なさいます」

 小さなテーブルに美しく食器を並べたシェリーメイが、ナフキンの上にカトラリーを置きながら言った。

「昼もあまりすすまなかったではないですか」

 シェリーメイのふっくりとした笑窪が、ランプの光の印影を受けて何故だが少し恐ろしげに見えたのはきっと気のせい。

「鶏は胸肉。塩コショウとオリーブオイルのみのシンプルな味付けですので、食べやすいはずです」

 トレーを抱えたまま、普段通りの落ち着いた口調でそう言うフラン。

 あっという間に何事もなかったかのような空気を作り上げられてしまい、ひょっとしたら焦っている自分がおかしいのではないかと思ってしまう。

 いやいや、あのルシエラがどこに行ったのか気にならないのか?

 すっかり食べる気を無くしたメイラだが、言外の圧を込められて渋々と銀のナイフとフォークを握った。

 テーブルに並んでいるのは一人前より少し少ない分量の食事で、メイドたちがメイラのことをよく理解している証拠だ。頑張れば食べきれる分だけ並んでいるので、残すわけにはいかないという心理が働くのだ。

 野菜と一緒にため息も飲み込んで、いや、やはり気になるものは気になると、再びテトラの方を向いた。

 視線はしっかり重なったが、彼女は慎重に目を逸らした。

 仕方がないので、次はフランの目を見つめてみる。

 にっこりと微笑み返されて、鶏肉の皿を勧められた。



 夜半、艦はまだ停泊中だった。

 このまま朝までここにいるのであれば、半日どころか丸一日近くを救助と捜索に使ったことになる。

 相変わらずメイラのところに情報はまったく降りてこないが、ルシエラがものすごく腹を立てて海軍側に苦情を申し立てているのは気づいていた。

 ハーデス公爵領で行われる祭事までにまだ時間の余裕はあるが、ありすぎるという事もない。天候など、何か支障をきたせば到着が遅れるおそれもあった。

 考えすぎても仕方がないので、メイラはそのまま眠ってしまうことにした。

 目を閉じると、ベッドそのものがゆらゆらと揺れているように感じられた。

 停泊している場所的な問題もあるのか、サッハートからここまで来るときよりも、波の動きが強く感じ取れる。

 メイラの護衛の中にも船酔いをしている者がいるそうで、医師のメリー女史を含めて大丈夫だろうかと心配だった。

「御方様」

 ふと、フランに肩を揺すられて目が覚めた。

「少しお熱が上がってきております。お薬を」

 ぐらぐらと揺れていたのは、船ではなくメイラのほうだったのか。

 まだ夜更けだとばかり思っていたが、扉の向こう側はすでにもう明るかった。

「穀物粥をお持ちしました。何か口になさいませんと」

 こんなに頻繁に熱を出すような体質ではなかったはずなのに。

 誘拐されて以来、身体が弱くなったのではないか? 真綿でくるむように世話をされ、それを良しとしているからなおの事、甘えが出てしまっているのかもしれない。

「御殿医殿の見立てでは、疲れが出たのでしょうと」

 ふと、昨晩までの怒涛の日々を思い出していた。……確かに、疲労困憊の連夜だった。

 思わず遠い目をしてしまい、唇から「はぁ」と間が抜けた声がこぼれる。

「些事は気になさらず、ごゆっくりお休みください」

 熱があると言われると、余計に身体が熱く感じられる。

 少しだけ粥を口にし、薬を飲ませてもらった。

 飲み終わった直後から、こっくりこっくりと頭が揺れ始め、温かな掛布でくるまれてしまえば、再びベッドの住人に舞い戻るのは必然だった。

 そこからの意識は少し飛ぶ。

 大きな物音と怒声に目を覚ました。

 なんとなく寝過ごした感があったものの、それに気を取られている暇はなかった。

 怒鳴っているのは男性。全身に鳥肌が立ち、ひゅっと喉が鳴る。

 狭い寝室には、メイラ一人しかいなかった。

 騒ぎが起こっているのは続き部屋か。

 本能が逃げ出したい、このまま隠れていたいと必死で引き留めていたが、対する女性の声は知っている者のもので、気づかなかったふりをするという選択は選べなかった。

「ルシエラ」

 少し強めに声を張ると、扉の向こうの騒ぎがピタリと収まった。

 数秒後、コンコンと控えめなノックの音がする。

「失礼いたします」

 細く開いた扉からするりと入ってきたのはユリだった。

「お騒がせして申し訳ございません。今……」

「リヒター提督がいらしているのね。身支度を手伝ってくれる?」

「ああ、お顔がまだ熟れたように赤いです。熱がお高いのですから、お休みなってください」

「よくわからないのだけれど、わたくしが話した方がいいのでしょう?」

「その必要はありません」

「ユリ」

「たかだか妾妃ごときが一時のご寵愛を楯に傍若無人ではないかっ! どうせ仮病なのだろう!!」

 バン! と勢いよく寝室の扉が開かれた。

 薄暗い寝室内にいたメイラは、出入り口から顔を背けるようにしてユリの腕に縋り付いた。一気に差し込んできたランプの光がまぶしすぎて、生理的な涙がにじむ。

「チッ! 愚物が」

 今、ルシエラのすごく怖い声が聞こえたんですけれども。

「提督!」

 太い濁声はディオン大佐のものだ。

 ようやく慣れてきた目に、背後から部下に羽交い絞めにされ、首筋に近衛騎士の長剣を突きつけられたリヒター提督の姿が見えてきた。

 男性に怒鳴られると、どうしても身体がすくんでしまう。

 しかし、今この状況をなんとかできるのは自分だけだとわかってもいた。

「……申し訳ございません、リヒター提督。少し体調を崩しておりまして」

 おそらく今の時刻は夜。丸一日寝込んでしまい、会食の約束の時刻を過ぎてしまったのだろう。

 大人なのだから、謝罪するべきところはきちんと謝罪しなければ。

 そう思って神妙に謝ってみたのだが、何故だか返答がない。

 おずおずと顔を上げて、まるで予想外のものでも見たかのようにパカンと口を開けている提督に首を傾げた。

「マデリーン、テトラ、剣を引きなさい」

 ああどうしよう。陛下のお身内でもある海軍のお偉方に剣を向けてしまうとは。

「下がって」

 一筋でも提督に傷を負わせてしまえば、謝罪しても追いつかないことになる。それなのに……

 見てたわよテトラ! あなたわざとらしく提督の軍服に切っ先を引っかけたでしょう!

 マデリーンまで、今脛を蹴飛ばさなかった?!

「身支度をする時間を頂いても?」

 メイラに出来るのは、彼女たちの行為を総てなかったことにする事だけだった。

 何故か呆然としている提督と視線を合わせ、意識をそちらに向けさせないようにする。

「すぐに戻りますから。シェリーメイ、提督にお茶を」

「はい、御方様」

 姿は見えないが、シェリーメイのはっきりとした声が聞こえた。

「……ルシエラ。手伝って」

 無意識のうちに声が低くなってしまったのは仕方がない。

 今のこの状況は、きっと天災ルシエラの余波なのだろうと確信していたからだ。

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