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 数日前に窓から眺めた港とのあまりの違いに、メイラは改めて己の足で立っていないことに安堵した。

 もしひとりであそこに行けと言われても、かなり手前で歩が止まり、噴き出した脂汗で折角の化粧ははげ、見るも無様にその場で失神してしまったかもしれない。

 白い帆を張った貿易船が行きかっていた平和な港は、今や貿易船ではなく大砲を備え付けた武骨な軍艦で占められていた。

 艦体の色は黒。陛下のお色だから、おそらくは直属の艦隊なのだろう。まったく知識がないので詳しくはわからないが。

 メイラにとって身近なのは、貴族それぞれが己の領内を守るために持つ領兵と、最近では近衛騎士団に憲兵師団だ。異母兄が所属する竜騎士団や、国全体を守護するための国軍、海賊や海からの攻撃に備えた海軍については、これまで知る機会はなかった。

 平民の知識などその程度で、特にメイラがもの知らずという訳でもないだろう。そんな己が、まさかこんなに近くで軍艦を見る機会を得るとは思ってもいなかった。

 湾内のど真ん中に、錨を下ろして停泊している黒々とした軍艦たち。

 ひときわ大きな軍艦が三隻。それよりも一回り小さなものが六隻。

 普通の旅客船や貿易船とは違って、船体には物々しく鎧のような金物が張られ、船腹の大砲がむき出しになってこちらを向いている。

 ぞわり、と悪寒が背筋を這い上がってきた。

 もしかしなくとも、あれに乗れというのだろうか。

 いやです。普通の旅客船がいいです。無理なら漁船でもいいです。

 そう駄々を捏ねそうになったメイラの耳を、大きな手が塞いだ。

「来るぞ」

 反対側の耳は、ぽすんと陛下の胸に押し付けられた。

 その言葉の意味を聞き返そうとしたところで、遠く船の上の方で、軍人のものらしき掛け声が聞こえてきた。

 その、次の瞬間。

 ドオォォォォン!!

 ものすごく大きな、聞いたこともないような音で大地が揺れた。

 文字通り、物理的に揺れた。

 背後で人々の歓声がひときわ高くなり、危険なものではないのだとわかるが、小心者の一般人ができるのは、ただその場で硬直し、震えることだけだった。

 恐ろしいというよりも、今すぐ世界が終わるのではないかと、見当識がひっくりかえるような衝撃だった。

 ぎゅっと、陛下の腕に力がこもった。

「祝砲だ、妃よ。そなたを歓迎しているのだ」

 寡聞にして、祝砲という言葉など聞いたこともなかった。砲は大砲か。祝はお祝いか。

 え? これって歓迎の挨拶なの?!

 追い払うの間違いではないかと思いつつ、改めてベールの存在に感謝した。きっと額には脂汗が滲み、恐怖で顔が青ざめている。そんな、今にも殺されそうだという顔を晒すわけにはいかない。

 なおも一定間隔で繰り返されるその大きな音に、最後まで実害がないという確信は持てなかった。

 永遠に続くのではないかと震え上がり、恥も外聞もなく泣き出しそうになる寸前、唐突にそれは終わった。

 群衆の歓声がまたも盛り上がり、口笛や拍手、中には花や紙吹雪を撒く子供たちまでいる。

 その子供たちの嬉しそうに跳ね回るさまを見てようやく、今の祝砲が慶事のしるしであると飲み込めた。

「今旗艦からボートに降りてきたのがジークハルト・リヒター提督だ。ここから先はあの男がそなたを守る」

 陛下に指し示された先、大型軍艦から降ろされたボートの上に、金のモールを肩に乗せた軍人が乗っているのが見えた。

 さほど待つまでもなく、あっという間に接岸し、波の動きなどものともせぬ敏捷さでひらりと岸に降り立つ。

 それほど大柄な男ではなかった。

 年齢は、陛下と同じぐらいか少し年下だろうか。褪せた金色の髪をしていて、顎の下にだけ綺麗に整えられた短い髭がある。

「ちなみに童顔に見えるがもうすぐ四十路だ」

「余計なことを言わないでくださいよ、陛下」

 え? と聞き返そうとしたメイラの代わりに、近づいてきた白い軍服の男が良く通るやけに美しい声で言った。

「久しいな、ジーク」

「ご尊顔を拝し、恐悦至極に存じます。そちらが陛下の掌中の珠ですか?」

「念のために言っておくが、手を出せば殺す」

「さすがにわきまえておりますよ」

「メルシェイラ、この男は有能だが、女にはだらしない。気を付けるように」

「ご紹介に与りましたジークハルト・リヒターと申します。以後お見知りおきください」

 メイラは小首を傾げて、すらりとした体形の、白い軍服とこんがりと日焼けした肌が対照的な男を見上げた。

 ベール越しに視線が合って、ニコリと微笑みかけられた。

 なるほど、女性受けしそうな色男だ。

「ご安心を、髪の毛一筋の傷もおつけしませんので」

「信頼しておらねば預けぬ」

 真顔でそう言った陛下に、リヒター提督は大仰な仕草で額に手を当てて敬礼した。

「この男は、わたしの母方の大叔父なのだ」

 大叔父、という関係性を頭の中に浮かべようとして戸惑う。つまり陛下の母方の祖父の弟という事か? 外見だけだと、下手をすると陛下より年下に見えるから混乱する。

「よろしくお願いします、妃殿下」

 差し出された手は、体格に見合わず大きかった。

 たかが妾妃に殿下などととんでもない! とかぶりを振ったせいで、大事作法を忘れてしまうところだった。危うく踏みとどまって、陛下の胸元を掴んでいた手を放し、日焼けした大きな手の上にちょこんとと乗せる。

 リヒター提督はさっとメイラの手をすくいあげ、爪先に口づけた。

 この手の挨拶にはいつまでたっても慣れる気がしないが、押しつけがましくなくスマートな、実にこなれた仕草だった。

「潮も風もちょうどいい塩梅ですよ。このまま海神のご機嫌を損ねなければ、ザガンには五日目の早朝には着くでしょう」

「そうか」   

 陛下が何かを逡巡するそぶりを見せた。

 じっと見られている気配がして顔を上げると、髪形を崩さないように頭を撫でられた。

 ベール越しなのがもったいない。陛下のあの美しい瞳を直接見たい。ふとこみ上げてきたそんな欲求は、リヒター提督が軽く咳払いするまで続いた。

「……いつまで後生大事に抱えていらっしゃるので?」

 そう言われるまで、メイラは安穏として陛下の腕の中に居ることに違和感を覚えてはいなかった。

 はっと我に帰り、目の前に控えるのが陛下のお身内であり、成人した女性、しかも妻を名乗るのであれば礼を逸してはいけない存在なのだと思い当たる。

「お、降ろしてくださいませ!」

 抱き上げられた状態で手を差し出すだけなどと、マナー違反どころか常識がないと思われても仕方がないではないか!

 慌てて腕の中から降りようと身じろぐが、鋼のような陛下の腕はピクリとも動かなかった。

「……陛下!」

「ハロルドだ」

「降ろしてくださいませ!!」

「ハロルドだ」

「……ハロルドさま」

 渋々と小声で名前を呼ぶと、ようやくがっちりとした拘束が緩んだ。

 身をよじってその腕から滑り居り、失礼のないように提督にご挨拶をし直さなければ! と意気込んでいたのだが、地面に足が付いた瞬間にガクリと膝が折れた。

「……っ!」

 その場に居た誰もが、とっさに手を差し伸べようとしてくれた。

 もちろん、腕が届く距離に居た陛下が素早くメイラを支え、崩れ落ちる前に腰を抱く。

「病み上がりなのだ、無理はするな」

「……申し訳ございません」

 とんだ失態だ。

 しかし陛下も悪い。どこに行くにも何をするにも、メイラを歩かせようとはしなかった。陛下がいない時でも、女性騎士かメイドに運ばせるほどの徹底ぶりだったのだ。こんなにも足腰が定まらないとは思ってもいなかった。

「じゃあ代わりに俺が」

 メイラの方へ一歩踏み出していたリヒター提督が、その手を伸ばしたまま若干笑いを含んだ声で言ったが、陛下はもとより周囲の誰からも黙殺された。

「キンバリー」

「はっ!」

 陛下の低い声が、腰を浮かせていた女性騎士のうちのひとりの名前を呼ぶ。

 呼ばれて勢いよく立ち上がったのは、顔見知りの後宮近衛の小隊長だった。

「……わかっているな?」

「はい、陛下」

 その声は聞いたことがないほどに厳しく、答える女性騎士の表情も硬い。

 わかっているって、ど、どういう意味だろう。

 威圧的な陛下の雰囲気にびくびくしながら、メイラは長身の女性騎士の腕に身を預けた。

 女性と言っても、武術を学び騎士として後宮近衛兵にまで上り詰めた女傑だ。華奢なメイラなら軽々と抱き上げそうだし、おそらくは担いだまま走ることも可能だろう。

 しかし、可能だからと言って、ずっと誰かに抱きかかえられて移動するわけにもいかない。

 ふるふると震える足を叱咤して、自力で立とうと試みた。

 キンバリーが腰を支え、いまだ片膝をついているその他の女性騎士たちもすぐに動けるように中腰の状態で見守るなか、なんとか両足が地面を捉えてしっかりと直立する。

 ほっとして顔を上げると、忘れそうになっていた周囲の状況が一気に視界に入ってきた。

 しまった。陛下だけを見ているはずだったのに。

 衆目の中、みっともない様子を晒してしまったのだと悟り、危うくまた足元から崩れ落ちそうになった。

 正装をして、規則正しい配置で並ぶ南方軍の騎士たち。

 少し下がった位置に、びっちりと整列している総督領の兵士たち。

 大きく開けられた港の一角には数頭の翼竜が待機し、その背中には竜騎士が手綱を握ってすぐにも飛び立てる状態でいるのが見える。

 膝を折って控える文官たち。

 新たに総督に任命された片足の悪い老騎士に、水オーブを掲げて拝跪している背の高い若者。

 そして、道という道、建物の窓とという窓、屋上や屋根の上にまでびっしりとつめかけているのは、この街の住人たちだ。

 その視線のすべてがこちらを向いているわけで……メイラはまたも、ベールの偉大さを思い知った。

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