5
雲一つない空の下、港町サッハートは見渡す限りの見物人であふれていた。
寒空の下だというのに、お祭りなのかと思う程の熱気に包まれ、人々の歓声が石造りの建物の奥にいても聞こえてくる。
しばらく前に街が封鎖され、怪我人が出るほどの状況だったのに、今ではそんな負の気配など完全になかったかのように払拭されていた。
総督府の正面大扉の内側で、メイラは緊張のあまり青ざめていた。
彼女は生まれてこの方ずっと、群衆の側に居た人間だ。人前に立つことなどほとんどなかった者が、大きな街ひとつぶんの人々の注目を浴びるなど、震えあがっても仕方がないと思う。
しかし、尻尾を撒いて逃げ出すのは不可能だった。陛下の太い腕に、がっちりと抱きかかえられていたからだ。
エルネスト侍従長の合図で、近衛騎士が両開きの大扉に手を掛ける。
扉が薄く開き始めた直後から、ドオオォォォォンと街が揺れているのかと思う程の歓声がメイラの鼓膜に襲い掛かった。
ぐらり、と眩暈がした。
本能的に身を守るために、正面に向けていた顔を陛下の肩に埋めた。
「大丈夫だ、メルシェイラ。我が妃よ。顔を上げて皆に美しいそなたを見せてやってくれ」
こんなに近くに居るのに、耳元で囁かれる言葉もよく聞き取れない。
しかし、こんなことでは駄目だと唇を引き結んだ。
ただずっと抱きかかえられて守られているわけにはいかない。末端の妃であろうとも、陛下のお側に侍るものとして、無様な姿は晒せない。
若干歓声が収まってきた気がして、そっと顔を上げた。
見上げると、ベール越しに青緑色の双眸がメイラを見下ろしていた。
いつも通りの優しい眼差し。メイラが愛する夫の、クジャク石のような美しい瞳だ。
ほっと身体から力が抜けた。
「陛下よりお言葉を賜ります」
朗々としたエルネスト侍従長の声が、歓声を縫って遠くにまで届けられた。
誰もが声を張り上げ、陛下に向かって手を振っていたのだが、彼の放ったその一言で、まるで水に波紋が広がる如く歓声が収束していく。
密集している人々が、誰に命じられるまでもなくその場に膝をつき拝跪するさまは、子供たちによく読み聞かせた神話の一節を思い出させた。
神世の時代の王を題材にしたその物語のように、今メイラを抱き上げているのはこの国の皇帝だ。
まるでその話の中に入り込んでしまったかのような錯覚に見舞われ、ますます現実感が希薄になってくる気がした。
「サッハートの街へ水オーブを下賜する。伏して受け取るがよい」
やがて奇跡のように静まり返った総督府前に、陛下の低く落ち着いた声が響いた。
大声を張り上げてなどいないのに、青空の果てまで届きそうに良く通る声だった。
男性的に整ったその容貌もあいまって、もしかすると本当に物語の中の登場人物なのではないか。そんなことを考えながらぽーっと見惚れていると、メイラを抱いている方の手にほんの少し力が込められた。
太腿を軽く指で撫でるようなその合図に我に返る。
はい! お役目ですね!!
メイラは胸元に抱えていたオーブの布包みを開き、掌の上に乗せて群衆に向けて掲げた。
青みがかった乳白色に輝くオーブは、メイラの両手で隠せる程度の大きさで、サイズ的には小さなものだ。
しかしそれは、この大陸に住む者たちにとって命綱だった。
大きな街には必ず複数設置されているが、その数が街の力を示しているといってもいいほどに、生きていくうえで欠かせないものだ。
街に追加されるなど滅多にない事で、メイラの掲げる水オーブが太陽の光を弾くなり、再び悲鳴のような歓声が沸き起こった。
実はこのオーブはサッハートの某所に隠匿されていたものだ。ごく限られた者たちだけがその恩恵を傍受し、非合法に水を売買して金に換えていたらしい。
陛下がやけに忙しそうだったのは、それをどう扱うかで元老院と調整していたからなのだそうだ。
水不足が常態なこの国で、新たな水オーブは誰もが喉から手が出るほどに望むものだ。農作物どころか、民が飲料に使うぶんにも不足しがちな状況で、秘匿着服は重犯罪だった。
幼少期から空腹と喉の渇きをいやという程味わってきたメイラにとっても、殺人レベルに許せないことだ。私利私欲のために懐に入れていた者たちがいるのであれば、厳重な取り調べとしかるべき処罰をお願いしたかった。
ふいに、ふわりと風が吹いた。
それは冬の風にしては柔らかく階段から吹きあがってきて、陛下の服とメイラのベールを巻き上げた。
まるで、抑えきれない憤懣に神が是と答えたようなタイミングだった。
「あっ」と無意識のうちに声がこぼれた。
とっさに顔を隠さねば、と思ったのは、付け焼刃にせよ貴族の女性としての感覚が芽生え始めているからだろう。
しかし両手は水オーブでふさがっている。
遮るもののなくなった視界に、どこまでも青く広い空と、こちらを見下ろしている陛下の顔だけが映った。
陽光を照り返す朱金色の髪。青空に木々の緑が溶け込んだような双眸。
メイラを見下ろすその眼差しは、群衆という下手をすれば万の視線をも頭から飛ばしてしまうものだった。
ふっと陛下の美しい双眸がほころんだ。
空いている方の手が視界の片隅でベールを押さえている。その黒い手袋の指先が、紗のベールを持ったまま頬を撫でた。
メイラが太陽の眩さに瞬きを繰り返すその回数ごとに、陛下の顔が近づいてくるのは気のせいか。
「……へい」
さすがに避けようとしたが、触れているだけだった手ががっちりとメイラの顎を掴んで固定した。
「ハロルドだ」
口づけが唇の端をかすめて、一瞬後。
どっと地面が割れるのではないかと思う程の大歓声が上がった。
口笛と、ドンドンと鳴る足踏み。最初はそれがひどく恐ろしいものにしか思えなかったが、宥めるように背中を撫でられ、くすぐったさに身をよじると同時に群衆の姿が視界に入ってしまい、今度はものすごい羞恥で真っ赤になった。
総督府の正面出入り口は、広場よりも十段ほど高い位置に作られていて、歓声を上げる人々の顔が良く見えた。興奮し、手足を振り上げる人々の表情は明るい。
それは逆にも言えることで、人々は彼らの皇帝と、その腕に大切そうに抱かれているメイラの存在がはっきりと認識できているのだろう。
今ほど、分厚い化粧を心強いと思ったことはない。
ドレスは鎧だなどと、よくぞ言ったものだ。
普段はほとんど着飾らず、妾妃としてどうかと言われるほどに地味な身なりのメイラだが、もしそのままの状態でここに居たならば、人々の視線に負けていたに違いない。
凝視される熱量は、その場で踏ん張るだけでも失神してしまいそうなほどのものだ。
人前に立つ為に、化粧し装うことも必要なのだと知った。
人々の熱気が最高潮に近いところまで高まっている中、階段の下の方から身なりの良い老人が進み出てきた。父ハーデス公よりも高齢であろうその人物は、片手に杖を持っている。しかし足腰はまだかくしゃくとしていて、しっかりとこちらを見上げたままゆっくりと一歩ずつ階段を上ってきた。
「久しいな、グレゴリー」
「はい。偉大なる我が皇帝陛下におかれましては……」
数段下で立ち止まり、片膝をついて礼を取る作法は騎士のものだ。
「挨拶は良い。膝が痛むのだろう? 立つがよい」
「いいえ、おいぼれの膝のことなど捨て置いてくださりませ。それよりも、この度のサッハートの不祥事に寛大なご慈悲を賜りましたこと、厚く御礼申し上げます」
「謝罪するのはこちらの方だ。フォルスが済まなかったな」
「ロッソの性根について気がかりでしたものを、そのままにしておりました私のほうにも責はあります」
「今はそなたにしか任せられぬ。もう一度総督としてサッハートを立て直してほしい」
「……老骨に鞭打ちましても」
「行政が軌道に乗るまでは、我が妃メルシェイラの父が人員を出してくれると言っている。遠慮なくこき使うが良い」
灰色の鋭い視線がメイラを捉えた。
見定めるような、いくらか敵意が混じったかのような視線だった。
「……あの食わせ者にこのように若いお嬢さんがいるとは」
「確かにあまり似ておらんな」
陛下はすっとベールを下ろし、険しい視線を遮ってくれた。
メイラはほっとして、いくらか身体から力を抜く。
「似ていなくてよかったな、妃よ」
大きな手が、髪飾りで重い頭の空いている部分に指を滑り込ませ、撫でた。
エルネスト侍従長が、すすっと滑るように近づいてきて深く頭を下げる。促され、メイラは布ごと水オーブをその両手に預けた。
ずっしりとした重みが去って、ほっと安堵の息を吐いた。
今まで両手に乗せていたのは、人々の命そのものだ。落として割ってしまいはしないかと不安だった。
老人の斜め後ろに控えていた面差しの良く似た若者が、両膝をついてオーブを受け取り、階段の石の上に額を押し付けた。
少し距離があったが、彼が土気色の顔で冷や汗をかき、若干震えているのが見てとれた。
わかる。ものすごくよくわかる。
杖を突いているご老人の代理として受け取ったのだろうが、ころころと丸いオーブは安定感に欠け、気を付けていなければスルンと布の上から落ちてしまいそうなのだ。
しかも、あの布地も良くない。すべすべときめ細やかな極上絹なので、球体でなくとも簡単に擦り落ちてしまいそうだ。
やがて、群衆の前に整然と並んでいた騎士たちが、鋭い掛け声を上げて隊列を変えた。
陛下はこのまま歩いて港へ向かうつもりらしい。
海は見えているので、おそらく数分の道のりなのだろうが、やんごとないご身分であれば、どんなに短い距離であろうと馬に乗るなり馬車に乗るなりするものだ。
理解はできるのだ。短い距離なら歩くのは当然だと、平民としての感覚では思う。
しかし、ものすごい熱量の群衆を前にしてみると、安全面が不安だった。いや、正直に言おう。ピンポイントでこちらを向いている人々の視線が恐ろしかったのだ。
しっかりしなければと思いつつ、細かく震えるのは抑えきれなかった。
陛下の肩越しに、水オーブを掲げ持ったあの青年が、俯き加減で必死に歩いているのが見えた。
彼に比べれば、まだマシなのかもしれない。
なにしろメイラがいるのは安定の陛下の腕の中。逞しく太い腕は、物理的な圧力すら感じる人々の凝視にも小動もしない。
メイラは縋り付くように陛下の軍服の前を握る。見上げると、ベール越しに視線が合った。
「よそ見をせず私だけを見ておればよい」
はっと息を飲んだ。
そうか。溢れんばかりの歓声も人々の凝視も気にせず、陛下だけを見つめていればいいのだ。
この腕の中にいられるのも、あとわずか。海に到着すれば船に乗せられ、しばらく会えなくなる。
耳鳴りのような大音量の歓声が、急に気にならなくなった。
鼻の奥がツンとして、ぎゅっと軍服を握る手に力がこもった。
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