2  (R15)

 陛下の訪いが告げられたのは、昨夜よりかなり遅い、深夜に近い時間帯だった。

 執務が立て込んでいるのだろうと気にしてはいなかったが、陛下の方はメイラの顔を見るなりほっとした表情になって、「遅くなって済まない」と詫びる。

 ベッドの脇に膝たちになって頭を下げていたメイラは、近づいていた陛下にひょいと持ち上げられて困惑した。

 相変わらず幼い子供に対するように片腕抱きで、小動もしない。

 そのままベッドまで運ばれて、最後まで言えなかった出迎えの口上を口づけの中に飲み込む。

 入浴したばかりなのだろう、陛下の長い髪は濡れていて、頬ずりされた皮膚からは石鹸の匂いがした。

「……エルネストめ」

 夕べは夜のかなり早い時間から明け方まで、眠ることは許されなかった。

 その調子で今夜も来られたらどうしようかと恐れていたのだが、そのあたりは辣腕な侍従長が気をまわしてくれたのだろう。いや、お忙しい陛下のことだから、どうしても今日中にしておかなければならない仕事があったのかもしれないが。

 お疲れなのだろう陛下をいたわるように、そっとその濡れた髪を撫でると、深々としたため息が返ってきた。

「……もう少し早く戻れるつもりでいたのだが」

 結局、朝方に出かけた切り、お茶どころか昼食も夕食もともにはとれなかった。

 サッハートに詰めていては執務にさしさわりがあるのだろう。メイラの為だけと自惚れるつもりはないが、陛下のような方をこの場にとどめているのが申し訳ない。

「体調はどうだ? 熱はないな」

「はい、陛下」

 至近距離でまじまじと見つめられ、頬に血の気が上るのがわかった。

「……お疲れではありませんか?」

「わたしか? そうだな、一日書類仕事に追われたせいで目の奥が痛む。いつものことだが」

 陛下は見るからに、身体を動かす方が好きそうなタイプだ。小さな文字を目で追うのは不得手なのかもしれない。

 メイラはそっと両手を持ち上げ、鮮やかな青緑色の視線を遮るようにその瞼を塞いだ。

 普段は末端冷え性気味なのだが、温められた室内のおかげで手足は温かい。そのぬくもりでほぐすように、眼球に圧を掛ける。

 目隠しされた状態の陛下は、しばらくしてからふっと笑った。

「ああ、気持ちが良い」

「熱い布巾をご用意いたしましょうか?」

「いやそれよりも……」

 ぐるり、と体勢が入れ替えられた。

 逞しい陛下の肢体に乗り上げる形になって、思わず手を放してしまいそうになったが、やんわりと手首をつかまれているので動かせない。

 慌てて閉ざそうとした太腿で陛下の腹を挟んでしまい、クツクツと低く笑われた。

「妃よ。我が子猫よ。その可憐な手で愛らしく癒してくれ」

 大きな手が夜着の裾から潜り込んできた。ビクリと震えた太腿を宥めるように撫で、そのままむき出しの尻を覆う。

 夜伽用の夜着というわけではないのだが、下着はつけていない。それがたまらなく羞恥心を煽り、「ひっ」と喉が鳴った。

 陛下の指が、昨晩散々触れた部分をたどる。

 期待などしていない。むしろあまりにも執拗な愛撫に恐怖すら覚えていたはずなのに。

 くちゅり、と湿った音が下の方で聞こえた。

「……いい子だ」

 メイラの手は、まだ陛下の両目を覆ったままだ。急所でもあるその部分に力を籠めすぎるわけにはいかないが、外すのも非常に恥ずかしかった。

「……っ」

「どうした? 見えぬのでよくわからぬ。夕べ教えたであろう? 恥ずかしがらずに良い声で鳴け」

 駄目です駄目です! そんな声で囁かれたら妊娠してしまいます!!

 メイラはくすぐるような愛撫に震え、両手で目隠しを続けたままがっくりと伏せた。

 陛下の声は骨が震えるほどに低く、男性的だ。耳元で甘く囁かれたら、どんな女でも腰砕けになってしまうだろう。

「メルシェイラ。我が妃よ。今宵はここに子種を仕込んでもかまわぬだろうか」

 えっ? 後宮に戻るまでは控えておくという話だったのでは?

「エルネストは小姑のように禁じてくるが、ひと月会えなくなる。その前にそなたと通じておきたいのだ」

 そうか。ハーデス公爵領へ向かうのはメイラだけなのだ。それはつまり、陛下と別れ別れになってしまうということだ。

「あっ、あ!」

「……狭いな。長旅が控えているそなたには酷だとわかっている」

 今陛下のお側に侍るのはメイラだけだ。

 しかし、帝都に戻れば、大勢の美しい妃が手ぐすね引いて待っている。毎晩ひとりどころか、望めば何人でも欲求を満たしてくれる妻がいて、経験がなく貧相な身体つきのメイラなど比較の対象にもなるまい。

 お優しい陛下のことだから、きっと忘れられたりはしないだろう。

 ほろり、と涙が頬を伝って落ちた。

 だからこそ、みじめな気がした。

 気づかれてはならないと嗚咽堪えて、陛下の逞しい胸に顔をうずめる。

「何故泣く?」

 こぼれた涙にすぐ気付かれ、左手でそっと頬を包まれた。

 いつの間にか目隠しは外れていて、薄暗がりでもはっきりと見てとれる美しい双眸がメイラをじっと見下ろしている。

「嫌か?」

 何もかもを含んだその質問に、更に涙があふれてきた。

 嫌なわけがないではないか。

 メイラとて、愛する夫と深くつながり、その子供を産みたいという望みはある。しかし……

「……こ、怖いのです」

 このまま、何もかもを捧げてしまうことが。

 いずれは無くしてしまうと分かっている相手に、すべてをさらけ出してしまうことが。

 情けない事に、ずっと嫌悪してきた母親よりも覚悟が足りない。

 心も身体も捧げた末に捨てられてしまったら、絶望して死にたくなってしまうとわかっていた。

「すまない」

 太い腕が、苦しくない程度にぎゅっとメイラを包み込んだ。

「恐ろしい思いをしたそなたに、急くべきではなかったな」

「……へいか」

 違うのだ。行為そのものが怖いわけではない。愛されることが嫌なわけではない。

 両親とは縁遠く育った。親に望まれず生まれてくる子供など山ほど見てきた。

 しかし、決して不幸な結末だけがあるのではない。努力すれば新しい別な幸せをつかみ取ることも可能なのだと知っている。

 別の、幸せ。

 そんなことを連想してしまうメイラはきっと、人間の恋情を信頼できるものだとは思っていないのだ。

 陛下に対する想いが褪せることはなくとも、いずれひとり孤独にそれを懐かしむのだろうと覚悟していた。

「陛下」

「無理をせずともよい」

 急に恐ろしくなって、震えながら陛下にしがみついた。

 その孤独に怯えるあまり、子供が欲しいと思ってしまった。

 陛下を失っても、子供がいれば生きていけると、そんな都合のいいことを考えている自分に気づいてしまった。

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