3  (R15)

 毎日花が届く。

 毎晩臥所を共にし、毎朝ベッドの上で別れ、時折昼や夜の食事を共にして。

 夫婦としてかなり密な時間を過ごしているにもかかわらず、午前と午後の二回、瑞々しくも美しい花束が届けられるのだ。

 それは、メイラひとりの腕には抱えきれないほどに巨大なものだった。

 最初は贈られた花を見るだけで涙ぐんでいたのだが、言葉を惜しまず、愛情を示してくれる陛下の存在そのものが心を慰めた。

 日に日に塞いでいた精神状態が上向きになり、華やかで美しい花々を見ていると、無意識のうちに顔が綻ぶ。

 一日に二度も届くので、あっという間に飾る場所に困るようになった。

 高価な宝石やドレスを贈られるのはうれしいが、気おくれすると零したせいで、「それでは終生そなたに花を贈り続けよう」と囁かれた。

 その言葉通りに、あふれるほどの花が毎日届く。

 皇帝の贈り物に相応しい豪華な花束なので、かなり値段が張るものだろう。

 申し訳ないので、「一日に一度で十分です」と言ってみもしたが、返答は「日に一度程度でわたしの愛がはかれるのか」という、なんとも背筋がぞわぞわするものだった。

 毎晩濃厚な夜を共にしているにもかかわらず、いまだ身体をつなげたことはない。いくら強請っても鷹揚に首を振られるだけで、男性の欲求的にはかなり申し訳ない事になっていると思う。

 こんなつまらない妾妃のために、ここまで心を尽くしてくれるのがありがたかった。

 大切にされていると思う。

 愛されているとも思う。

 たとえ後宮に戻った陛下が、豊満な妃たちの肉体に触れるのだとわかっていても、もう二度と、陛下の前では泣き言をいうまいと決めた。

 こんな自分が、夫と呼べるのだ。生涯愛し続けても許されるのだ。

 それだけでいいではないか。

 明日、ハーデス公爵領へ旅立つことが決まっている。この部屋で陛下と過ごすのも今夜が最後、明日は早くから用意をして、昼前にはここを発つ。

 別れを思えば胸がキリキリと痛んだ。

 今夜は最後まで愛して下さるだろうか。そんなことを考え、祈るように両手を握りしめる。

 夜を過ごすたびに、心の中の陛下が占める割合が大きくなる。

 そのうち陛下だけになってしまい、息もできなくなってしまいそうで。

 美しい色とりどりの花を見つめて、それでもいいと、また思う。

「メルシェイラ」

 薄暗いベッドの中、甘く低い声が鼓膜を犯す。

「そなたと離れるのは思っていた以上に辛いな」

 うつぶせにされた背後から、太い腕がぎゅっと抱きしめてきた。

 立ち込める濃厚な男性の匂いに、甘い吐息がこぼれる。

「一日も早く、わたしの腕の中に戻って参れ」

「……はい、陛下」

「ハロルドと名前で呼んでくれ」

「っ! あ」

 低い声にメイラが反応しているとわかってやっているのだろう。

 耳たぶを食まれ、なおも低音で囁かれる。

「さあ、呼んでみよ」

 陛下のフルネームは非常に長い。その受け継いだ地位と爵位をすべて正確に呼ぶのは、暗唱レベルの記憶力が必要なほどだ。

 ただし、その名前をワンフレーズだけであろうが直接呼ぶのはとてつもなく非礼とされていた。

 呼びかけは敬称がデフォルト。他国の者はエゼルバード帝と呼び、その頭上に冠を頂いた瞬間から、ハロルドと呼ぶものはほとんどいないだろう。

「……メルシェイラ、我が妃よ」

「はい、へ……」

「ハロルドだ」

「あ! んっ」

 いたずらな手が、散々嬲った胸の頂を強めに摘まむ。

 痛いはずなのに、痺れるような刺激が下腹部に直撃する。

「っ!!」

「ハロルドだ」

 陛下はずるいと思う。

 経験の浅いメイラを、あっという間に翻弄し、思うがままにしてしまう。

 明け方まで愛され続け、枯れはてた声で、メイラはひたすら陛下の名前を呼んでいた。陛下と呼ぶたびにお仕置きをされるので、泣くまいと心に決めていたというのに頬はどろどろに濡れ、焦点も定まらない。

 翌朝、エルネスト侍従長とルシエラ一等女官のあきれ果てた視線が痛かった。

 足腰が立たず、声も出ない。

 ただひとり満足そうなのは、「それでは出航を延期するか」と頷く陛下だけで、もちろんそんな戯言は通らなかった。

「……とりあえず、できるご用意は済ませておきますので、少しお休みください」

 エルネスト侍従長のため息に身体を小さくする。

「陛下。申し上げるまでもございませんが、これ以上はなりません」

「……」

 薄い夜着の下で、しっかりとメイラの腹を抱えていた手が不穏に動く。

「ご出立までの時間、執務を詰め込んでも?」

「わかった、わかった」

 ぎゅっと目を閉じ、くすぐったさに増すよからぬ感覚を堪えていたメイラは、へそ回りを撫でていた指が夜着から出ていくのにほっとした。

 陛下に愛されるのは幸せなことだ。

 ただし、市井で育った彼女にとって、誰かに見られながらというのはどうしても抵抗があった。

 これまでの夜も、警護や見届け人のような人間が寝室内にいたのかもしれないが、少なくともメイラがそうと気づく範囲にはいなかった。

 眩いほどに明るい午前、きっちりと既定の装束を着こんだ仕事人たちを前に、みだらな様を晒したくはない。

「ご出立用のお着替えの前に、いちど湯あみを予定しております」

 ルシエラの薄い色の目は、常にもまして氷のようだ。

「ご用意が整うまで、二時間ほどお休みください」

 メイラは音のならない唇をはくはくと動かした末、諦めたように眦を下げて頷いた。

 もうすでに日は高い。徹夜明けなので、よけいにその光が瞼を差し、生理的な涙が幕を張る。

 分厚い掌が、遮るように顔の上半分を覆った。眩さに痛みすら感じ始めていたので、ほっと息を吐き、すり……と陛下のその手に額を預ける。

 ベッドの天蓋布が下ろされる音がした。一気に心地よい薄暗さになり、この小さな空間で陛下とふたりきりという贅沢に浸る。

 永遠にこの時間が続けばいのに。

 そんなことを思いながら、愛する夫の腕の中で微睡んだ。

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