修道女、これはきっと夢だと思う

1

 ゆっくり瞼を開ける。

 ぼんやりと瞬きを繰り返し、目の前にある筋肉質の胸板に焦点を合わせる。

 ああ……陛下だ。

 そう思った瞬間、安堵の念が沸き上がってくる。

「おはよう」

 耳元に落ちてくる少し掠れた低音に、すっかり慣れてしまった自分が怖い。

「……おはようございます」

 今日も今日とて陛下は下ばき一枚のほとんど裸だった。いい加減乙女との同衾に気を使ってほしいのだが。

 もちろんそんなことは口に出しては言えないので、ほんのり顔を上気させ視線を泳がせた。

「熱はだいぶ下がったな」

「はい、陛下」

「辛いところはないか?」

「はい」

 メイラのほうはさすがに夜着を着ているが、かなり薄手なので、布越しに陛下の高めの体温がはっきりと伝わってくる。

 腕枕をしていた手が動き、そのままそっと髪を撫でる。

 耳に触れ、頬をたどり。軽く顎を持ち上げられたところできゅっと目を閉じた。

 低く男性的に笑う声がした。

「今朝も愛いな、妃よ」

「……っ」

 軽く唇をついばまれる。

 遠慮もなく舌が潜り込んできて、まったりと咥内をまさぐり、更に深く食もうと角度が変わったところで、ごほんと場違いな咳払いがした。

「……無粋な真似をするな。少しぐらい良いだろう」 

 大きな手が腰を、尻を撫でる。

「なりません。御方様はまだご本復されておりません」

 陛下はともかく、寝起きにエルネスト侍従長の声を聴くのはまだ慣れない。

 その「陛下はともかく」という部分に自分でも突っ込みどころ満載だったが、あえて深く考えないようにした。

 太腿を撫でる手の動きに、ふるふると全身が震える。

 見られている。

 侍従長に、壁際で空気のようになって控えているメイドたちに、護衛の騎士たちに。

 陛下にとって閨事はそういうものなのかもしれないが、市井育ちのメイラには耐えがたい羞恥だった。

 悲鳴を上げて、頭から毛布をかぶってしまいたい。枕をぶつけ、こっちを見ないで! と大声で叫びたい。

 ……もちろん、そんなこと出来るはずもないのだが。

「本日の予定を申し上げます」

 エルネスト侍従長の、淡々と続く口調がありがたかった。その調子で何事もなかったかのようにスルーしてほしい。

 陛下も! 怪しげに手を動かすのはやめて下さい!!

 クックっと笑う喉の動きを睨むと、おそらく真っ赤になっているのだろう頬を撫でられた。

「早く良くなれ」

「……はい、陛下」

 若干不貞腐れた声でそう言うと、更に機嫌が良さそうになるのは何故だろう。

 陛下が大きな掛布をめくると、ひんやりとした空気に身体が震えた。

 メイラのそんなささやかな仕草をも敏感に察知して、空気がもれないようぎゅっと包みなおしてくれる。

「見送りはいいからもう少し寝ていなさい。まだ朝も早い。」

 そう言いながらメイラの髪を撫で、こめかみに口づけをひとつ。

 ベッドの脇に立つその姿は、下ばき一枚、つまりはほぼ裸。どこも隠そうとはしない。少しも恥ずかしがる素振りがないのは、その見事な肉体美を誇示したいからなのか。

 恨みがましくそう思ってしまう程、陛下の身体には不要なぜい肉などみあたらなかった。

 メイラは掛布の下で、やわらかな己の脇腹を摘まんでみた。

 美しいプロポーションとは程遠い体形だ。あばら骨が浮くほどに貧相で、腹はたるんでいる。せめてこのたるんだ肉が胸に回ってくれたらいいのに……。

 エルネスト侍従長にガウンを掛けられた陛下が、最後に一度、メイラの方を振り返る。

 その深い色合いの瞳が好きだ。優しく綻ぶ唇が好きだ。

 陛下の後ろ姿が扉の向こうに消えるのを見送って、ぐいぐいと枕に額をねじ込んだ。

 ……ああそうだ、認めよう。

 メイラはもはや言い訳しようもないほど、陛下を愛してしまっていた。

 あまりにも簡単で、あまりにも単純な恋の落ち方だった。

 確かに陛下は夫だ。しかしメイラは、数いる妻たちの一人にすぎない。

 さして美しいわけでも、可愛らしいわけでも、特出した才能があるわけでもない。ごく平凡な、貴族を名乗るのもおこがましい、育ちの悪い小娘だ。

 今はそばに居てくださるが、いつかは遠くに去ってしまうだろう。メイラより美しい、たとえば第二妃殿下のような方のもとに帰られるのだろう。

 枕に頭をうずめたまま、じわりと瞼が緩むのを許した。

 覚悟をしておかねばならない。決して自分だけの夫にはならないのだと。

「……メルシェイラさま?」

 しばらくそのままじっとしていると、ユリの気づかわし気な声がした。

 これ以上心配をかけたくはないが、顔を上げることはできそうになかった。

「どうされましたか? ご気分でも?」

「少し眠いの」

「さようでございますか。では部屋を暗くしましょう」

 目を閉じると、くらり、と眩暈がした。

 確かにまだ熱がある。あまり食事をとっていないので、体力も落ちている。このまま患ったままでいれば、陛下はずっとお優しく気遣ってくださるだろうか。

 それぐらいしか陛下を引き留めておく手段を思いつけない自分が、たまらなく情けなかった。

 とはいっても、元来健康体なので数日とかからず回復してしまうだろう。無理やり吐かされたせいで喉が少し痛むが、今ある熱もおそらく微熱程度だ。

 回復してしまえば、後宮に戻ることになるのだろう。

 そうすれば、陛下は他の妃のもとへ行ってしまう。簡単には会えなくなる。

 最初から分かっていたことなのに、それは嫌だと心が叫ぶ。

 ずっとそばに居て、ずっとそばで笑っていて。

 わきまえなければいけない立場なのに、浅ましいそんな思いが胸を締め付ける。

 静かにカーテンが引かれる音がした。ベッドの天蓋布まで下げられて、腕で覆った視界の外が薄暗くなる。

 今だけは、ベッドの上の限られた空間にメイラただ一人。誰からの視線も気にすることなく居られる。

 ユリのその気遣いに感謝しながら、涙で枕が湿ってくるに任せた。

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