第72話

 とはいえ、長く落ち込んでいることが出来ないのがメイラという人間だ。

 体調不良は如何ともしがたいが、めそめそするのを自身に許したのは半日だけだった。

 そうしなければ、日々の生活に事欠いていたという育ちのせいもあるだろう。落ち込んでいようが腹を立てていようが、子供たちにご飯を食べさせるためには、部屋にこもって鬱々としている暇などなかった。むしろ、一心不乱に働くことで気持ちを紛らわせていた。

 そうしていれば、時間がすべてを解決してくれる。今は辛くとも、人は痛みに慣れるものだと知っている。

 少し眠って、昼前には気持ちを持ち直した。

 好きになってしまったのは仕方がない。変えられない事実ならば、受け入れるしかない。

 この先どうなろうとも、陛下を愛おしいという気持ちを大切にしてあげよう。

 温情がいずれ尽きてしまうものだとしても、可愛げのない女だったと記憶の片隅に追いやられようとも。たとえ結末が物語のように幸せでなくとも、この温かくも胸の痛くなるような感情だけは、誰にも取り上げることはできないはずだ。

 来客が告げられ、やってきたマローを歓迎した。

 彼女は何故か灰色の下級メイド服を着ていて、相変わらずの大きなお胸がはちきれそうだなと、そんなことを考える余裕すらあった。

 普段通りの、なんてことはない顔を保てていたはずだ。当たり障りのない挨拶をして、お互いの無事を喜び合い……そこまではよかった。

「……御方様」

 マローの声を遠くに聞きながら、紫色の玉髪飾りを両手で包み込む。

 二度とこの手に戻ってくることはないと思っていた。そもそも不相応だと思っていたし、今となってはこんなふうに髪も短くなってしまった。

 これはもう、己には縁がなかった、持ち主としてふさわしくなかったという事なのだろうと。

 形あるものは、いずれ無くなってしまう。胸に抱えた想いのように、永遠に無くならないものなど存在しない。そう諦めて、あえて行方を問おうとはしなかったのだ。

 しかし、マローが差し出した包みを見た瞬間、すぐにその中身を察して息が詰まった。

 綺麗な白い布がめくられ、現れた想像通りのものに、ふるふると全身が震える。

 上半身を前のめりにし、震える手を伸ばすと、一通り不審物がないか確認をしたユリがようやくメイラの手元にそれを持ってきた。

 指先で触れた瞬間、涙がひと粒、手の甲に落ちた。

 記憶の中にあるよりもなお深い紫色の、顔が映りそうなほど磨かれた丸い石。不思議に温かく感じるつややかな玉飾りを、掌でそっと包み込む。

 途端に、わずかな堰でとどめられていた涙が決壊した。

 美しさの欠片もない泣き顔だっただろう。しかしもはや、己の意思でそれを止めることなどできなかった。

「っ……ありがとう、ございます」

 ひとつどころか、いくつもの大きな嗚咽を呑み込んでから、ようやく言葉を紡げた。

 辛抱強く待っていてくれたマローが、優しく目を細める。

 メイラはぎゅっと胸元で玉髪飾りを抱きしめた。

 戻ってきてくれたことが、神の啓示のように思えた。ここに居てもいいのだと、陛下のお側にいてもいいのだと。

 自分勝手極まりないが、そうやって誰かに「いいよ」と言って欲しかったのだろう。

 メイラの目には、この玉飾りこそが赦しの象徴だった。

「無事にお返し出来て安堵いたしました」

 ベッドの傍らに膝をついた灰色メイド服姿のマローが、低めの柔らかな声で言った。

 最初に会った時の騎士の装いも、冒険者のズボン姿も、下級メイドのグレーの服も。よく見れば顔立ちは変わらないのに、それぞれまったく違った人間に見えるという不思議。

「ほんとうにありがとう」

 メイラはじっとそんな彼女を見つめ、心からの礼を言った。

 慣れない仕草で手を伸ばし、貴人らしく感謝を伝えようと口を開くも、唇が震えて言葉が続かない。

 マローはもう一度微笑んでから、片膝をついたままベッドのそばまで来て、メイラの伸ばされた手をそっと握った。

 剣だこのできた手は大きい。しかし、女性らしくしっとりしていて、温かかった。

 メイラの手を握りしめたのも、そっと引き寄せたのも、さらには指先に唇の端を落としたのも。メイド服でする仕草ではないと思うのだが、全く違和感がなく、むしろポーっと見とれてしまう程に様になっていた。

 バン!!

 マナーからは遠くかけ離れた大きな音がした。この部屋にある唯一の扉が、壁に激突する勢いで開く。

 今この場所でそんなことができるのは陛下しかいないが、咄嗟にビクリと身を固くしてしまったのは仕方がないだろう。

 メイラの位置から出入り口は見えないようになっているのだが、室内のすべての人間が深々と礼を取ったので、想像通りの人物が突入してきたのだとわかる。

「メルシェイラ!!」

 大声で名前を呼ばれ、メイラはぱちくりと目を見開いた。

 まだ頬は濡れていたが、マローのほれぼれするような騎士っぷりに(メイド服だが)涙は止まっていた。

 むしろ若干頬を染めて、灰色のメイド服の女に手を許しているその姿に、何を思ったのか陛下は見えない位置で立ち止まり、たっぷり十秒ほど黙っていた。

「……陛下?」

 一向に近づいてこようとしない陛下に、メイラは控えめに呼びかけてみる。

 その時、何故かマローがニコリと笑った。よくわかっていないまま、メイラもまた微笑みを返す。

 カツカツと、いささか乱暴な足音がした。

 大股に現れた陛下は、いまだ握られたままだったメイラの手を叩き落とすような勢いで回収した。

訳わからず小首を傾げると、大勢の視線があるにも関わらずベッドに上がってくる。

「何を泣く? 辛い事を聞かれたか?」

 太い腕で抱き込まれ、安定の膝の上に下ろされた。

 ようやく、頬が濡れているのを心配したのだろうと察することが出来た。

「いいえ。マローがこれを」

 陛下にも見えるように、握りしめていた玉髪飾りを示した。

「わざわざ届けてくれたのです」

「……そうか」

 陛下が納得したように頷き、いつものようにそっと、メイラの髪を手で梳いた。

「折角贈ったが挿せなくなってしまったな。別の物を贈ろう」

「いえ!」

 メイラは仰天して首を大きく振った。

「わたくしにはこれだけで充分です」

 奪われてなるものか、とぎゅっと玉飾りを握りしめる。

「そのほうは無欲だな」

「いいえ。いいえ」

 すがるように陛下を見上げ、首を振った。無欲なのではない。むしろその逆だと思う。

 手放したくないのだ、これだけは。誰に何と言われようとも。

 そっと頬を掌で包まれた。

 指先で濡れたところを拭われて、ちゅっと音を立てて鼻先に口づけられる

 ちゅっちゅと幾度もキスを落とされ、最初のうちはぼーっとしていたのだが、やがて周囲から向けられている異常なほどの凝視に気づいてしまった。

「へ、陛下……っ、あの」

 身体中に穴が開きそうだった。恥ずかしくてたまらなかった。

 しかし陛下は、注目を浴びていることなどまったく気にしてもいないようだ。

 深いクジャク石のような美しい瞳に視線が囚われて、メイラもまた頭の芯がしびれるような感覚に陥りかける。

「……っや」

 陛下の唇が口角の端をかすめ、濡れた咥内がゆったりと開かれるのを目にして……我に返るどころか、混乱して訳が分からなくなってしまった。

「だ、駄目です!」

 本格的な口づけが始まる寸前、反射的に陛下の口を押さえて、きゅっと目を閉じた。

「……駄目か」

 ふっと低く喉を鳴らして笑われた。

 顔面が一気に熱くなるのを感じた。きっと耳まで赤くなっているに違いない。

「み、皆が見ております」

「そうだな」

「陛下は意地悪です」

 少し唇を噛み、涙目で訴える。

 メイラを見下ろす青緑色の目は、目じりを細くして綻んでいて、明るいところで見るよりも濃さを増しているようだった。

「意地悪か」

 温かい息が手に掛かった。慌て引こうとしたが、がっちりと手首をつかまれていて離れない。

 掌にべろりと、少し冷たい湿った感触がした。

「では、そんな意地悪なわたしに悪戯されてみるか?」

 舐められたのだ、と気づいた瞬間、「ひうっ」と奇妙な声を零してしまった。

 ぞわりとしたものが背筋を走り、本能的に身体が逃げを打つ。

 もちろん、がっちりと抱き込まれているのでそこから逃れることはできない。

 ただし、確信犯の陛下が腕の力を抜いたので、メイラの身体はぽすり、とベッドの上に落ちた。

「……陛下!」

 のしかかってきた巨躯に、ぶんぶんと首を振った。

 夫である皇帝陛下を拒むことはできない。それはわかっていたが、まだ日の高い昼間、十人近くに見られながらといいうのはさすがに勘弁してほしかった。

 ぷくり、と涙の滲んだ眦を、太い指がそっと擦る。

「嫌か?」

 尋ねられて、本心から何度も首を上下に振って。

「そうか、嫌か」

「あ、あの。マローと話を」

 少し悲しそうな顔をされたので、慌てて言葉をつないだが、その名は何故か陛下の目つきを厳しいものにしただけだった。

「……なるほど? それは夫婦の時間よりも大切なことか?」

 何故、浮気を責められているような雰囲気になっているのだ。

「ええっと……そう! 陛下とは夜にまたお話しできますし」

 ついつい考えなしの言い訳をしてしまってから、はたと黙った。よくない汗が背中を伝う。

 メイラは、己を組み伏せている陛下の顔をおずおずと見上げた。

 陛下は、これまで見た事もないような満足そうな笑顔を浮かべていた。

 一気に熱がぶり返してくるような気がした。

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