5
夜が更け切らないうちに、緊急で場が持たれた。
クリム教授がおっかなびっくりに陛下の前へ進み出て、膝を折って丁寧な挨拶をする。
その礼の取り方を見るに、彼の出自が下位貴族なのだとわかる。
周囲からの注視を浴びて、その表情は酷く強張っていた。
気持ちはわかる。屈強な騎士たちに厳重に取り囲まれて、更には威圧感たっぷりな陛下の御前だ。顔の色が青いを通り越して白っぽくなっていて、今にも気絶してしまいそうだ。
そんな心配をしたのはロバートだけではないようで、教授の傍らには例の女性助手が付き添っていた。いや、彼女の場合は純粋な心配だけではないのだろう。足元が危うい教授を支える為に同席を許したのに、やはりチラチラと色めいた視線を陛下に送っている。
陛下も近衛騎士もまったく気にも留めていないようだが、ロバートはいつ怒りを買うかとハラハラした。
事は国家の一大事である。浮ついた気持ちで聞いていい話ではない。
やはり席を外させようかと思ったところで、陛下が例の報告書を赤毛の近衛騎士に手渡し、次いでロバートに回ってきた。
渡されたので受け取ったわけだが、たいして深く考えるまでもなく、その折り目を綺麗に伸ばす。
無意識のうちに複数枚ある書類の端をそろえ、緊張している教授の元へ歩み寄った。
貴人が何かを受け取ったり渡したりするとき、直接本人に手渡ししたりはしないものだ。
特に陛下ほどのご身分になると、中継ぎが二回でもまだ少ない。
それは権威を示すというよりも、暗殺の心配が必要な身分の者のための作法だ。
ロバートが書類を差し出すと、教授は生唾を呑み込むように喉を動かし、両手で受け取った。
そのままひっくり返ってしまうのではと心配していたのだが、書類に視線を落とした教授の表情はいつの間にか緊張から程遠いものになっていた。
エルブランの魔法士が記した報告書は全部で四枚。
紙面と顔がくっつくほどの近距離で読み進み、陛下の御前だというのにブツブツと聞き取れない言葉でなにやら呟いている。
教授は本文を三度ほど読み返し、首を四十五度傾け、三枚目だけを更に二度目で追う。
彼に魔法士としての心得があったのは僥倖だった。
部下の中にもそれなりに知識のあるものはいるが、基本身体を使うことの方が得手な連中なのだ。
「……はぁ、なるほど」
やがて、これまではよく聞き取れなかった教授の独り言が、明瞭なひとつの言葉を紡いだ。
「これは大変だ」
白髪交じりの茶色い髪をわしゃわしゃと掻き、念のため、といったふうに報告書の裏側にまで目を通す。もちろん正式な報告書なので、メモ書きや私信のようなものは書かれていない。
教授はコクコクと納得したように頷いて、四枚の紙を折り目通りに丁寧に畳んだ。
「えらいことですよ、陛下」
岩の上に腰を下ろし、腕組みをしている陛下の表情は相変わらず険しい。
教授は興奮した様子で首を上下させ、もう一度「えらいことです」と繰り返す。
先ほどまでは見るからに腰が引けた状態だったのに、今はもうまったく頓着していない。
そういえば、ああいう子供の玩具があったな……と、犬の首振り人形を連想するのはロバートだけではないはずだ。
しかし誰もがそんな連想をおくびにも出さず、この場ではもっとも博識だろう彼の言葉の続きを待った。
「この報告書を書いた魔法士もよく勉強していますね。特にこの、連動と同周の考察はたいしたもので……」
更に延々と続いた台詞は難解で、はたしてこの場にいる何人が理解できただろうか。
「ユクリノスのオーブを見れば、もっと多くのことが判明するでしょう。ですがコレ、わたしの専門分野ではないですよ」
教授の専門は地質学。先の地震により水源に異常があるやもしれぬと調査に向かうはずが、その前に専門外だと断言されてしまった。
「帝都に戻って有識者を探している時間はない。今の話からも教授にそれなりの見識があるのはわかる。代わりの者を呼ぶ前に一度見てくれないか」
「それなりにわかることもあろうとは思いますが、錬金術科のブルーノ教授か魔道具生成を専門にしているリベルラ女史をお勧めしますよ。ふたりとも、翼竜に乗るのは断固拒否してましたが」
「気絶させても連れてくる」
「……それまでの繋ぎでしたら」
陛下の視線がロバートの方を向いた。
もちろん命令を受けるまでもなく、部隊のなかで最も速い翼竜を相棒に持つ男を呼ぶよう、自身の副官に視線を送る。
心得た副官がやはり無言のまま敬礼し、踵を返すのを見送って、まだ延々と喋っている教授に辛抱強く相槌をうっている陛下へ頷き返す。
「書くものを」
陛下がそう発言する前にはもう、近衛騎士のひとりがクリップボードと万年筆を持って控えていた。
言い終わる前に必要なものを背後から差し出す近衛騎士に、誰もが何のリアクションもなく唖然としていたが、陛下も陛下で振り返ることもなく、当然のような顔をして受け取っている。
封蝋された勅令書が仕上がるまでに要した時間はわずか数分。蝋を溶かしたり指輪でシーリングしたりする時間を含めてだ。
甲斐甲斐しく陛下の御用を務める様子は、どう考えても近衛騎士の職域から離れた動きだが、主従の連携に滞りなどは一切なく、この以心伝心が日常の風景なのだと知れた。
近衛騎士とは、ただ単に護衛として傍にあるだけではないのかと感心しながら見ていると、ふと赤毛の近衛騎士の視線がおかしな方向に動いているのに気づいた。
ロバートはとっさに剣の柄に手を当てた。
声にならない緊張感が、一瞬にして竜騎士たちに広がった。
「……陛下」
教授の傍らでその身体を支えていたはずの女性が、ふらり、と前に進み出ていた。
彼女は陛下から数歩の距離に両膝を付き、胸のふくらみを強調させるような姿勢で両手を組んでいる。
そんな風に目の前に迫られたものだから、当然ながら陛下の視線が彼女に向かう。その注意を引いた事で勝利を確信したように、女は頬を染め艶やかに微笑んだ。
さすが陛下、モテるよなと、ほとんどの竜騎士が思ったにちがいない。中には、可愛らしいこの女性との目眩く夜を想像した者もいるだろう。
部下たちの警戒が緩み、その視線が主に彼女の豊かな胸に集約しているのがわかる。
正直、彼女がどういうつもりでいたかなどわからない。
おそらくは一晩の寵を、あわよくば後宮に攫って行ってくれるかもしれないという目論見でいたのだろうとは思う。
ロバートはいつのまにか、剣の柄から手を離していた。
その思い込みが油断なのだという認識はなかった。
夜目にも白い女の手が、陛下の膝に伸ばされる。それを、甘い感覚でただ見ていた。
「……っ」
野営のかがり火 の光を浴びて、ぬるりと鈍く刃が煌めいた。
濃い茶色の髪の近衛騎士が剣を抜いたのだと、察するまでに数秒。
首筋の毛が逆立ち、再び剣の柄を握りしめていた。
「あ……」
状況を理解していない表情で、喉元に切っ先を突きつけられた女が声を出す。
理解していない? 本当にそうなのか?
ロバートは、女だからと容易く陛下に近づけてしまった自身に冷や汗をかいた
再び顔色を悪くした教授も、抗議の声ひとつあげることなく成り行きを見守っている。
女は腕を掴まれ、乱暴に陛下の御前ら引き離された。
細い憐れを誘う声で縋ってきたが、陛下は完全に無視しているし、剣を抜いたまま警戒を緩めない近衛騎士の判断もひっくり返ることはなさそうだ。
その本心が純粋に陛下を想うものであれ、害意があったのであれ、二度とお側に近づくことはできないだろう。
下手をすると帝都に戻ってからも監視がつくだろうし、意固地になって余計なことを仕出かせば、大学に残ることどころか、将来嫁に行くことすら難しくなる。
不敬罪を言い渡される可能性を示唆すると、真っ青な顔で大人しくなった。
萎びた表情で座り込む彼女を気の毒だとは思わない。この国で最も尊いご身分である陛下に秋波を送ったのだ。袖にされるのも覚悟の上のはずだ。
むしろ、楯としての役割を思い出させてくれた礼を言いたい。
絶対に失ってはならない方なのだ。
その身を無事に帝都に送り届けるまで、女子供であろうが、ヨボヨボの老人であろうが、安易に近づけてはならない。
何事もなかったかのように平然としている近衛騎士と視線が合ったので、目礼した。
彼は彼の仕事をした。ロバートも、その務めを果たさなければ。
簡易天幕の中に入る陛下の背中を見送って、一晩忙しくなる部下たちに向き直った。
部隊で最も足が速い伝令に、勅令書を手渡す。
宛先は魔法師団長。
封蝋の色は、大至急の意味を持つ赤。
ワーカーホリックな老人のことだから、可能な限り速やかに必要な仕事をこなしてくれるだろう。
夜間の飛行は危険を伴うが、熟練した竜騎士にはその程度問題にならない。
うまくいけば、部隊がユクリノスに到着するより先に、陛下が招聘した学者を連れて来ることができるかもしれない。
「急げ」
カチリ、と踵を合わせて敬礼した部下に頷きかけた。
すでに出立の準備が整っていて、数名の伝令が飛び乗ると即座に翼竜たちが翼を広げる。
ここは高所ではないので、上空の気流を捕まえるまでに時間はかかるだろうが、幸いにして風向きは東南。最短で帝都に到着できるだろう。
翼竜が飛び立つ風圧から目を守るために、瞼を伏せる。
一瞬後、夜の昏い空に巨大な影が差し、あっという間にその姿は遠くなった。月明かりにぼんやりと見えるだけの大きさになり、やがて東の空に消える。
「……武具の点検をしてから交代で休息。三分の一ずつ休んでもいいが、警備は怠るな」
「イエッサー」
副官にそう命じ、自らは剣を手に陛下の天幕の傍に寄る。
ロバートは焚火にほど近い場所で片膝を立てて座り、いつでも動けるよう待機の姿勢を取った。
眠るつもりはなかった。
一晩中かかっても、考えることは無くなりそうにない。
エルブランの事。水オーブの事。ユクリノスの事。
そして一番長く頭を悩ませたのは……縁の薄い末の妹の事だった。
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