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ばさり、と巨大な翼が宙を掻く。
上空から見下ろすエルブランの街は、巨大な石造りの要塞のようだった。天辺がまっ平な丘陵の上に立ち、そのむき出しの岩肌の斜面に沿って、分厚い城壁がぐるりと一周している。
この大陸が平定される前から交易の要所として発展してきた商人の街で、城壁は砂漠の砂の侵出を阻むと同時に、往時も今も盗賊などから街を守っているのだ。
この街が長い歴史を持つのは、建物が入り組んだ迷路のようになっていることからもわかる。中心部に都風の建物がいくつかある以外は、赤みがかった乾燥レンガの建造物ばかりで、道は入り組み複雑化している。
しかし、普段は中小の露店が立ち並び、余多の商人が行きかうにぎやかな通りも、今はひっそりと人気がなかった。
城壁の上には、疫病を示す黄色い旗が掲げられ、街が封鎖されていることを示している。
黒龍の背にまたがり、陛下はじっとその様子を見下ろしていた。
翼竜部隊に向かって手を振っているのは、庁舎の屋上で見送る者たちだけではない。
ちらほらと通路に出てきている者たちが、翼竜に気づいてこちらを見上げ、指さしながら歓声を上げている。
疫病で封鎖された街にしては、混乱もなく落ち着いているように見えた。
見捨てられていないと感じることは大切だ。追加の水オーブやメメトスの治療師の件が、彼らの不安を和らげているのだろう。
この街が、末の妹が領主となっていると知ったのは数日前だ。
妻と娘が実家のお茶会に招かれた時に聞かされたらしく、大丈夫かと問われた。
ロバートの母親を含む父の妻たちは、メルシェイラのことを強欲で我儘な下賤な血を引く女だと言っていたようで、そんな娘が妃となったり、有力な街の領主になったりするなど、陛下の御意向に背く大逆罪だと息まいていたらしい。
もちろん妻には、会ったこともない者をこき下ろすなと窘めておいた。
本人の事を微塵も知らないのはロバートも同様だが、仮にも陛下の妃であるメルシェイラを貶めるような発言はしてはならない。
エルブランはもともと、長兄と次兄が自治を取り上げようと狙っていた街だ。
近年その構えは顕実化していて、軍事行動も辞さない態度でいる事に不安はあった。父の考えは違うようだが、はっきりと反対しているわけでもなく、それなのに相談もなくいきなりメルシェイラに領主の指輪を与えたことで、兄たちはかなり不満を持っているらしい。
そのこともあっての母たちの言い分だろうが、メルシェイラの所領地ということはつまり陛下の差配下に入ったものだとも言える。大逆罪に問われかねないのは彼女たちのほうだ。
もう一度、ホバリングする翼竜の背でバランスをとっている陛下を振り返る。
少し距離があるが、険しい表情をしているのは見てとれた。
追加で配置された水オーブは、皇家の私有物だ。万が一のことが起こった場合に備えて、皇帝が個人的に保有していたものらしい。その身の重さと同等の黄金を対価として求められるというメメトスの治療師のことといい、それがメルシェイラへの配慮であるならば、少なからず陛下は末の妹を寵愛してくださっているという事なのだろう。
できるだけ早い段階で実家に戻り、母親たちを諫めなくては。
寵妃への不遜を見過ごしてくださるかなど、試してみるべきではない。万が一にも不快に思われれば、陛下のことだから、ハーデス公爵家のこれまでの功績など無視して潰しに来るだろう。
いや、そこまではされなくとも、大きく力を削がれることは確実だ。
婚約者がいるにもかかわらず、メルシェイラを排除して陛下に嫁ぐのだと言ってはばからない姪といい、公的に認知した娘を十八になるまで修道院に放置し続けた父といい、母たちだけではなく兄を含む一族の皆に、竜の尾を踏みかねないのだと知らせなければならない。
ロバートは、陛下の傍近くにあったわけではないが、その戦果を目の当たりにしてきた世代の軍人である。ここ数年は小競り合い程度にしか戦はなく、統治は安定しているが、いざ事が起これば容赦なく剣を抜き、果敢に敵を屠るだろう。
その対象になるなど、忠誠心以前の問題で御免こうむりたい。
ふ、っと陛下の視線がこちらを向いた。……何故か睨まれた気がする。
ロバートは相棒を撫でるふりをして視線を躱し、冷えた首筋をすくめた。
「……行くぞ、日が沈むまでに追いつきたい」
伝達石がついたイヤーカフを手で覆い、離れた位置にいる部下たちに指示を出す。
エルブランに降り立った翼竜は四騎。残りは少し離れた場所に十と、先行部隊としてユクリノスへと向かっている二十。竜籠に乗っている学者たちは先行部隊としてすでに中継地に着いているだろう。
魔道具から「了解」の声が返ってきて、遠方の翼竜たちが翼を広げて飛翔の準備に入るのが見える。
帝都からユクリノスへは、馬を使えば一週間。翼竜だと十二時間程度かかる。途中でエルブランに寄ったので、日没までに着くことは不可能になり、陛下に危険な夜間飛行をさせるわけにいかず、やむを得ず途中で野営することになっていた。
どこかの街で泊まるのは、翼竜の待機場所に困るし、何より陛下の身の安全への不安がある。
もともと騎士である陛下も野営に否とは言わなかったので、急遽物資を集め対応することになったのだ。
今頃、中継地についた部隊は陛下が快適に過ごせるように準備しているだろう。
食べ物と簡易な寝床はあるので、あとは火を起こすことと水の確保ぐらいだが。
やがて西に傾いた太陽を追うような形で、翼竜部隊がV字隊列を組む。
先頭は速度が出せる副官の相棒で、ロバートは右翼の二番手。陛下は三番手。右翼側に陛下の護衛である近衛の竜騎士が続き、左翼にはロバートの部下たちがものすごく硬い表情をして隊列を維持している。
ロバートは「あまり緊張するな」と言おうとしたが、イヤーカフに伸ばしかけた手は魔法石に触れる前に下ろされた。
またも、ひやりとした気配が首筋に感じられたからだ。
振り返るのが怖い。
まさかだが、一族のメルシェイラに対する態度がすでに露見していて、この首を飛ばそうと考えているなど……ないだろうな?
しかし陛下から殺気を向けられる理由などそれぐらいしか思い当たらず、上空にいるので言い訳することもできず……いや、下手にそんな事をしたら余計に首が冷たいことになりそうで。
ロバートは新人の竜騎士のようにじっと前だけを向き、副官の騎乗する翼竜の尻尾を見つめ続けた。
―――妹よ、お前の夫を何とかしてくれ!
脂汗をかきながら、心の中で必死に懇願し続ける。
しかし、容貌も定かではない末の妹は答えてはくれず、ただ肝が冷えるような時間だけが過ぎていった。
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