修道女、向いていないと気づく
1
後宮近衛隊に連れられて妾妃の館へ戻る途中、バラ園の脇に差し掛かったところだった。
「……あっ!」
不意に場違いな声が聞こえてきた。
明らかにメイラに向けられたものだったので、少し足を緩めて顔だけをそちらに向ける。
盛りも終盤に差し掛かったバラたちはますます薫り高く、色とりどりに咲き誇っている。
そんな生垣状に続く低木の間、レンガで舗装された通路ではない部分に彼女たちはいた。
女騎士たちがすかさずその身でメイラの視界を塞いだのでよくわからなかったのだが、揉み合うような気配と口論のようなものが聞こえた。
「……リコリス?」
肉の壁状態でそびえ立つ騎士たちの隙間から、特徴的な短髪が見えて。メイラは慣れないながらも大丈夫だという合図を騎士たちに出した。
それでも隙間はほんの少ししか開かず、隊の半数が帯剣に手を当てている。
「……何をしているの?」
部屋付きメイドのリコリスは、何故かポメラに背後から抱き抱えられていた。揉め事でもあるのかと不安になったが、ポメラはリコリスを必死で止めようとしているようだ。
「メルシェイラざまぁあぁあぁ」
濁音と鼻声の混じった涙声だった。
「よがっだあああああぁぁっ!!」
えぐえぐと喘いでいるその顔は、お世辞にも美しいとは言えない。
せっかく可愛らしい顔立ちなのに、涙で化粧が剥がれ落ち、目も鼻も赤く、鼻水まで垂れている。
百年の恋も冷めそうなほど崩れた面相だったが、それを見たメイラは何故かほっこりした。
「心配してくれたのね、リコ。ポメラもありがとう」
「……ゔぇぇぇぇぇぇぇ」
実に汚らしく涙をこぼす少女は、激情のままこちらに駆け寄ろうとしてまたポメラに止められる。
近衛騎士たちは注意を怠らず身構えたままだが、リコリスがその場で膝をついて号泣し始めたので途方に暮れた様子だ。
「どうしたの」
後宮で働いているのだから、たとえ端であろうと身分定かな良家の出のはずである。裕福な商家か、下級貴族が。若いので部屋付きメイドだが、経験を積めば黒いメイド服を着ることも許される立場のはずだ。
身を律する教育はそれなりに受けているだろうに、身もふたもなく地面にうずくまって号泣する様は幼い子供そのもので。
自覚はあるが、メイラはこの手のタイプにめっぽう弱かった。
「あらまあ、そんなに泣かないで」
隠しからハンカチを取り出して、制止しようとする騎士たちの間から一歩足を踏み出す。
ぼろぼろと零れる涙を拭ってやると、溶けたアイラインの向こうからキラキラした大きな目が見つめ返してきた。
「お尻の怪我はもう大丈夫?」
ひっくひっくと嗚咽を漏らしながら、必死で首を上下に振るリコリス。
「ほら、立ちなさい」
肘を引いて立たせてあげると、また大粒の涙が赤くなった頬を流れ落ちた。
「また何かあったの?」
ぶんぶんと首を左右に振って、何か言おうとして言葉にならない。部屋付きメイドのそんな様子にメイラは笑う。
「ポメラも、変わりない?」
メイド服が皺になるほど強く同僚を拘束していた無口なメイドが、ぱっと両手を離した。
そしてその場で膝を折り、深く礼を取る。今更感がものすごかったが、基本主人の陰に徹する裏方らしい控えめな所作だった。
「迎えに来てくれたのかしら」
「は、はいっ!!」
どう考えても部屋付きメイドの仕事ではないが、まるで長らく会えなかったご主人を迎えに来た犬のようなリコリスの様子に、悪い気はしない。むしろ落ち気味だった気分が少し上昇して、自然に微笑みが浮かんだ。
「そう……ありがとう」
貴族階級にある者は使用人に礼など言わない。それどころか、視線すら向けないのが普通だ。
しかし見えない尻尾をパタパタ振っているリコリスと、そんな彼女のリードを懸命に引いているポメラを見ていると、どうしてもそう言いたくなった。
後宮という世界は、きらびやかに見えて闇が深い。
そんな女の戦場に再び投下されたメイラの目には、邪気なく慕ってくれる若い少女たちがとても可愛らしく微笑ましいものとして映っていた。
憂鬱だった気持ちが、ふわりと浮上する。
父やネメシス閣下からの指示に従い動くつもりでいたが、改めて、彼女たちを守るのも使命なのだと思った。
メイラが握らせたハンカチを宝物のように胸の前で持つリコリスに、もう一度笑みを向ける。
今になってようやく状況に気づいたらしく、頬を濡らしたまま赤くなったり青くなったりしている彼女は、故郷の修道院にいる妹分のようだ。
「では案内して。元の部屋ではないのでしょう?」
「……はっ、はい!!」
ここは無言で頭を下げるだけなのが正解なのだが、幼いとさえ見える少女がぴょこんと背筋を伸ばして首を上下させる姿は、愛嬌たっぷりで注意する気にはなれなかった。
再び動き出した集団の先に立ち、どう贔屓目に見ても歩き方から再教育したほうがよさそうな動きでリコリスが進む。
ポメラがどうしようかと逡巡した様子でそれを見送ったのを見て、「ふふふ……」と小さな含み笑いがこぼれた。
「あまり叱らないであげてね」
ひたすら無言で背後に控えている傍付きメイドたちに小声で告げる。
返答がないのでちらりと視線を向けてみると、筆頭メイドのユリは無表情。シェリーメイは普段以上にニコニコと笑顔だ。
「……悪気はないと思うのよ」
つい肩を持つようなことを言ってしまって、後悔する。庇えば庇うほど状況が悪化するだけだと気づいたからだ。
ぴょこぴょこと揺れる短髪を見ながら、この後死ぬほど叱責されるであろうリコリスに、神のご加護がありますように……と密かに祈った。
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