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 ぱさり、と白い夜着を広げる。

 純白の布に刺された刺繍は控えめな同色のものだが、繊細で美しく仕上がっている。

 最終確認としてその隅々にまで目をやって、それなりに上手くできたのではないかと頷く。

 縫い目ヨシ。糸の始末ヨシ。

 裏側や身頃の際まで確かめて、ようやく満足して小さく笑った。

「お美しい仕上がりです」

 糸切狭と針を裁縫箱に仕舞いながらユリが言う。

「本当に。お上手ですねぇ」

 丈の長い男性用の夜着なので、シェリーメイがたたむのを手伝ってくれる。

「特にこの部分。牡鹿の躍動感が素敵」

「わたくしはこの小鳥が」

 メイドたちが手放しで褒めてくれるのが面映ゆい。

 単なる修道女の手すさびだが、長年それで修道院の運営費を稼いできたので、プロのお針子にも負けない腕だと自負している。

「陛下に喜んでいただけるといいけれど」

「それはもう、飛び上って喜ばれるのでは?」

「飛び上って? 陛下が?」

 アナベルの言葉にクスクスと笑う。

 あの陛下が、子供のように歓喜する様を想像してしまったのだ。

 部屋を荒らされてから三日が経っていた。

 調査状況がどのようになっているのかはわからない。

 気にならないと言えば嘘になるが、そこは陛下やネメシス憲兵師団長閣下を信頼して任せるしかないのだ。

 メイラはこの三日間、ずっと刺繍をし続けた。おかげ様で、陛下の白い夜着は重量が変わるほどにびっしりと細かな刺繍が施されている。

 たたまれた夜着を例の漆塗りの箱に収めて、傷つけないように蓋を閉める。中央の牡丹の細工をそっと撫でると、デコボコとした凹凸が指先に伝わってきた。

 細かなヒビのはいった月光螺鈿は、日の光の下では若干濁った色に見える。

 そういえばまだ月の光の下で見たことがなかった。美しく発光するという螺鈿細工を、最後に見てからお返ししようと思う。

 さて、これをどうやってお渡しするかだが。

 陛下にはあの日以来お会いできていない。いやもしかすると、二度とお声がかかることはないのかもしれない。たとえ呼ばれたとしても、後宮での夜伽の順であるのだとすれば、この漆塗りの箱を持ち込むことはできないだろう。

 おそらく直接手渡しするのは難しい。近衛騎士に頼むか、あるいは……

「陛下の肩にかけて差し上げてください。喜ばれますよ」

「……えっ」

 ニコニコ顔のアナベルにそんなことを言われて、メイラはきょとんと目を見開いた。

「毎晩お袖を通されるのではないかしら」

「大切に飾って、ずっと眺めて愛でられるのかもしれませんわ」

「まあ素敵」

 青の宮のメイドたちは、自領から共についてきてくれたユリたちにくらべると年かさである。メイドという、仕える者にもよるが決して楽とは言えない仕事についていて、酸いも甘いも存分に見聞きしてきたに違いないのに、きゃっきゃと笑う彼女たちは少女のように朗らかで楽しそうだ。

 メイラはそんなアナベルたちをしばらく目を丸くして見上げて、次いで嬉しそうにしているユリやシェリーメイに視線を向けた。

 彼女たちは、陛下が再びメイラの元を訪れると信じているのだ。

 それはないだろうと冷静に思うのに、ほのかに胸の奥に温かいものが灯った。

「贈り物をしたいので、お会いできませんかと使者を出しましょう」

「そうですね、きっとすぐにいらしてくださいますよ」

 慌ててぶるぶると首を左右に振った。

「ま、待って。陛下はお忙しいでしょうし、そんな」

 淑女らしからぬ仕草ではあったが、それを咎められる事はなく、むしろ微笑ましそうな顔をされた。

「その程度のことをかなえて下さらない甲斐性なしではございませんとも」

「か、甲斐性?」

 にっこりと微笑むアナベル。

 無礼ではなかろうかと口にしかけて、黙った。

「大丈夫ですよ」

 その表情が、あまりにも自信ありげだったので。

 メイラはへにゃりと笑った。もちろん使者は出さないようにと念を入れたが、心の中の沈んだ部分を救い上げてくれようとする彼女たちの気遣いがうれしかった。

 もう一度、黒い漆箱を手で撫でる。

 誰かにことづけて陛下に献上しようと考えていた。そこにはきっと、受け取ってもらえないかもしれないという躊躇いや、もう二度とお召しはないだろうという諦観があったからだ。

 だが直接お渡ししたい。あの肩にかけて差し上げたい。

 気づけばそんな願望が、メイラの中に育っていた。

「……機会があったらお渡しするわ」

 そう呟いた声は小さく、心許なげで。

 自身の耳に届いた途端に恥ずかしくなって、顔が赤らむのがわかった。

 蓋をした部分から、小さな想いがこぼれだす。

 多くは望まない。それが許される身分でもない。

 ただ、生まれてしまった感情に罪はなく、ふわふわと柔らかなそれを大切にしたいと思うのだ。



 そんな彼女のもとに訪問者があったのは、さらに翌日の昼過ぎだった。

 残念ながら陛下ではなく、ネメシス憲兵師団長閣下ともうひとり、同じ憲兵の正装をしている長身の女性だ。

 きっちりとまとめられた髪は白金色。長いまつげに彩られた目は水色。全体的に色素が薄く、冷たい氷のような印象の美しい人だった。

「シエラ・ルーベント大尉です」

 白い手袋に覆われた指が優雅に胸元に置かれる。

「第一憲兵師団第六大隊所属三番隊隊長を務めております」

 美人の声はやはり美しいが、普通の女性のものより低く、抑揚も少なく淡々としていた。

 一般市民の、しかも女であるメイラの知識では、彼女の言う所属がどういうものかはよくわからない。ただ、女性騎士という需要の多い職種に比べ、憲兵という分野で身を立てている彼女はとても優秀なのだろう。

「後宮の人員が大幅に減りましたので、増員として潜入させます。女官としてお側に仕えさせますので、何かありましたら彼女にお伝えください」

 閣下はそう言って、なんてことはないという風に微笑んだ。

 さらりと言ったな。

 後宮の人員が減った……それが物理的なものではなく、単なる解雇であればいいのだが。

 しかも潜入。それは、メイラが知っていていい事なのだろうか。

 小首を傾げた彼女を見て、シエラは表情を変えず、閣下は更に目じりを垂れさせた。

「陛下はなかなかに大きな鉈を振るわれました。近衛騎士も女官もメイドも侍従も、身辺調査レベルで調べを進め、少しでも問題があれば下がらせています。……お妃さまがたもです」

「……まあ」

 どきりと心臓が跳ねた。

 後宮に上がる際の書類に虚偽の記載をしていることは、まだ誰にも知られていないと思う。悪意があってしたことではないのだが、嘘は嘘だ。

「心配はありません。今後は我らが憲兵、近衛騎士、使用人たちも万全の体制を敷きますので」

 知ってか知らずが、閣下の言葉は核心から外れていた。

 しかし、真実が知られた場合の事を思えば背筋が冷えた。

「妾妃さまのお部屋を荒らした者たちの取り締まりは終えました。詳細は省きますが、刃物の出どころも判明しました。あとは裏を追及するだけです」

 ほんの五日ほどで、膨大な人員を有する後宮を調べ切ったのだろうか。それは憲兵が優秀だというよりも、もともと調査が入っていたと考えるべきだろう。

 憲兵隊長であるシエラが女官に扮していることを、わざわざ知らせてきたのも疑問だった。

 人員が大幅に削減されたのであれば、何も告げずに入り込むことは十分に可能だからだ。

 つまり、知らせた方がよい『何か』があるのだろう。

 数度瞬きする間だけ考えて、メイラは小さく苦笑した。

「……わたくしに何をお望みでしょうか」

 所詮は利用される立場の人間なのだと、改めて思った。

 嫌なわけではない。どうせ使われるのであれば、せいぜい上手に働いて見せよう。

 メイラの部屋が荒らされたのは、きっときっかけに過ぎない。裏では計り知れない大きなものが動いている。

 彼女がそれを知る立場にない事は確かだが、少しでも陛下のお役に立てるのであれば……

 困ったように微笑みを深くする憲兵師団長閣下の顔を見上げて、己が父親の為ではなく、陛下の為にと考えたことに、諦めに似た胸の痛みを感じた。

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