6

 その夜、メイラは眠れずベッドの中にいた。

 よもや今晩にも気を使われて閨に誘われるのかと戦々恐々としていたが、陛下はそんな彼女の顔色を見て優し気に頬を撫でて下さった。

 また参ると言い残して去っていった速度は相変わらず疾風のようで、貴族としての礼儀作法はさわりしか知らないメイラだが、ずいぶんと通例を無視されているように思える。

 もちろんこの国の最高権力者たる陛下に当てはまることではないのだろうが。

 そっと包むように頬を撫でた大きな手を思い出す。

 骨に響くような低音の笑い声を。柔らかく細められたクジャク石のような瞳を。

「……」 

 メイラは天蓋の模様を眺めながらぼんやりと今の状況に思いを巡らせた。

 年頃の娘らが語る幸せな恋愛を否定するつもりはない。

 しかし彼女は、市井の男女のドロドロとした関係を飽くほどに見てきた。『恋』や『愛』という名のついた、時に残酷な結末も。

 現実が単に美しいだけのものではないと知っているから、彼女は生涯を神にささげようと決めたのだ。

 恋などしたことはなかった。するつもりもなかった。

 果たして自分は、陛下を愛してしまったのだろうか。

 戯れに想像した事は、ものすごく深く心を刺した。

 陛下は夫だ。たとえ、三十人以上いる妻のうちの一人であろうとも。夫である人を愛しても罪ではない。しかしかの人の愛は、大勢の妻たちと平等に分け合わねばならない。

 抱き寄せられた逞しい腕を思い出す。

 臥所で眠った一晩の温もりが鮮明に浮かぶ。

 ふと、布屋の妻が夫の愛人を刺殺した事件を思い出した。人間の死体を目にするのは初めてではなかったが、あんな残酷な殺され方は見たこともなかった。

 布屋の妻のことは知っていた。修道院によく端布を寄付してくれるおっとりと優しい女性だった。そしてメイラは、殺された愛人の方とも知己だった。衛士をしていた夫と死別し、病気の子供の薬代の為に愛人になったのだ。

 愛人は惨殺され、布屋の妻は投獄中に気が触れて死んだ。後に夫も首をつって自殺し、市長に引き取られた子共も病気で死んだ。

 悪いのは誰だったのだろう。愛人か? 寡婦を愛人にした布屋の夫か? 病気になった子供か? 夫の裏切りを許せなかった妻か? もしかすると衛士の夫なのかもしれない。

 あまりにも救いのない事件だった。やりきれなさだけが心に残った。

 メイラはそっと、目を閉じた。

 あの結末が愛ゆえというのであれば、その試練は残酷で厳しく恐ろしいものだ。

 美しく幸せな男女の愛はきっとどこかにはあるのだろう。しかし、巡り合うために必要な奇跡は、きっとこの掌の上には落ちてこない。

 メイラはベッドの中でそっと両手を組んだ。

 陛下を愛してはならない。強くそう心に念じる。

 しかしそう思うことそのものが、すでに心の天秤が傾き始めている証拠だとわかってもいた。

 感情を心の中に押し込め、蓋をする。

 ぎゅっと閉じて、固く固く閉める。

 大丈夫。まだ大丈夫。

 繰り返し呪文のように繰り返し、強いて唇の両端を持ち上げた。

 欲しいものは手に入らない。ならば小さな欠片とて欲しがるべきではない。

 父の命令通りに仕事をしよう。

 三年後に修道院に戻る日を指折り数えて暮らそう。

 子供たちはどうしているだろうか。三年も経ったら、下の子などメイラを覚えてもいないだろう。上の子は成人して独り立ちしているだろうか。

 あのステンドグラスの隙間を修理して、子供たちに服を買うのだ。美味しい肉を食べさせてあげるのだ。……それで十分ではないか。



「……」

 メイラはぱっちりと目を開けた。

 眠れない眠れないと言いつつ、日付が変わる頃にはあっけなく熟睡してしまう彼女は、今回もいつもの時間に起床した。

 寝る前まで考えていたことに一瞬だけ思いを巡らせ、きつく目を閉じた。

 ゆっくりと目を開けると、早朝のおぼろな明かりに照らされた室内が見えた。

 天蓋布が風に揺れ、隙間から薄紫色の空がのぞく。

「お目覚めですか?」

 フランの声がその布の向こうから聞こえた。

「まだ早いですが、起きられますか?」

「……おはよう、フラン。今日の天気も良さそうね?」

「少し風がありますが、雲は少ないです」

 メイラは上半身を起こした。以前よりも艶を増した黒髪が、胸元に落ちる。

「温かいお飲み物はいかがですか」

 目覚めの紅茶はすっかり習慣になってしまっていて、それがないと一日が始まらない気がする。

 メイラは微笑み、頷いた。

「ミルクを多めに入れてね」

「かしこまりました」

 フランが紅茶を入れている間に、青の宮付きメイドのアンナが身支度を整えてくれるようだ。

 湯あみをするかと問われたが、朝から体力を使いたくないので首を振って断った。

 一日に何回も湯殿に誘われるのだが、一般的な貴族とはこういうものなのだろうか。

 たっぷりのお湯を張るのに時間も手間も労力もかかるだろうし、もちろんそれらはタダではない。浴室中に香るいい匂いも、身体を洗うために使う石鹸も、出た後に使うオイルも。おそらくは修道院を一年運営する以上の費えが必要なはずだ。

 傅くメイドたちの人件費を思えば、総額いくらするのだろうと恐々としてしまう。

 おそらくはそれらすべてが国家の運営費として計上されているものであり、要するに臣民の税金だ。気にしても仕方がないと頭ではわかっているのだが、湯水のごとくに使われる金貨を想像してしまえば申し訳ない気持ちにもなる。 

 メイラは流れていってしまう税金のことを考えながら、用意してもらったボールの水で顔を洗い、ふわふわの布で水気を拭う。

 ベッドから降りるのにすら手を差し出され、このままだと人の手を借りないと生きていけなくなってしまうと危惧しながらもその掌の上に指先を乗せた。

 優しくメイラの手を引くのは、十歳ほど年上のアンナ。爪まで美しく整えられているが、その指は仕事人らしく少し硬い。

 目にするものすべてが非現実にきらびやかな中、メイドたちのその手に安心する。本来己は傅かれる身分ではなく、他者の為に生きるのが分相応だと改めて思うのだ。

 胸の前でリボンになっている部分を解かれ、ナイトドレスを脱がされると、ドロワーズ一枚になる。上半身は素っ裸のまま立たされる訳だが、浴室で隅々まで洗われることを思えば、下半身だけとはいえ下着で覆われているのに安心する。

 メイラは用意されていた三枚のドレスの内、一番大人しい配色のものを指さして選んだ。

 素肌の上に、まず柔らかな素材のシュミーズを着て、皮素材のコルセットを着用する。もともと華奢なのでギュウギュウと締め付けるものではなく、姿勢と腰の位置を整えるための矯正下着だ。

 選んだドレスは装飾部分が少ないシンプルな作りだが、見るからに上等の布とレースが使われていた。もともと後宮に持ち込んだものより高価かもしれず、明らかに既製品ではない。

 背後に回ったアンナが、背中の小さなボタンを留めていく。

 既製品だと胸回りなどが余るのだが、補正の必要もないほどぴったりだ。

 これを用意するためのお針子の労力を思い、溜息がこぼれそうだった。

 普通の貴族女性はこんなことなど考えもしないのだろう。

 やはり己は使用人側の感性しか持てないのだと、つくづくそう思う。

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