皇帝、夜の帳を想う

第22話

 皇帝ハロルドは、ほのかな花の香りに包まれ、微睡んでいた。

 起きているとも寝ているともつかぬ、穏やかに過ぎる時間をゆったり揺蕩う。

 腕の中には小さな身体。

 頬に触れる柔らかな髪。

 次第に覚醒してくる意識が、この時を惜しんだ。

 無意識のうちに、腕に力がこもる。

 小さな吐息が、胸元に掛かる。

「お目覚めでしょうか」

 ささやかな幸福感は、一瞬にして霧散した。

 たとえ信頼する相手であろうと、気配を感じた瞬間に意識は明瞭になる。

「……エルネストか」

「おはようございます、陛下。本日は朝議の前に宰相との会談が予定されております」

 目を開けると、広い寝台に彼女はいなかった。

―――夢か。

 そう悟った瞬間、胸によぎったのは落胆だ。

 義務のように夜伽をこなしても、明け方には一人寝の寝台に戻るのが常だった。

 こんな風に、目覚めに誰かの存在を錯覚することはなかった。

 エルネストが洗顔の用意をしている間、無意識のうちに己の手を見下ろす。

 この手が梳いた髪の滑らかさを、小さな胸のふくらみを……一晩またぎ、また違う妃を抱いた後でも明瞭に思い出すことができる。

 彼女は何もかも小さかった。

 不安そうに震える肩も、小ぶりな唇も。手も足も胸も腰も、なにもかもが壊してしまいそうに華奢だった。

 ほころぶ目元、甘い吐息。

 記憶はますます明瞭に、一昨日の夜を思い起こさせる。

「……陛下?」

 訝し気なエルネストに声を掛けられるまで、ハロルドは無骨な己の手のひらを見つめ続けていた。

「どうかされましたか? お加減でも?」

「いや」

 低い声で否定する。

 促されるままに顔を上げ、髭の処理を任せる。

 数分後顔を洗い、着替えをして。

「陛下」

 再びエルネストに声を掛けられるまで、己が上の空だということに気づいていなかった。

「……陛下のご意志は尊重されるべきだと思います」

「何のことだ?」

「今宵からの予定を調整します」

 忠実な男に浮かぶあまり歓迎できない表情を目にして、ハロルドは顔をしかめた。

 エルネストはおおむね理知的で常識的な男なのだが、時折こちらが引くような毒を吐く。

「……また増えるのか?」

「これ以上はもういいのではないでしょうか」

「そう言って増やしたがな」

 妾妃の数が一人増えたのは、もちろんエルネストの責任ではない。

 ねじ込んできたのがハーデス公爵でなければ、断っていただろう。その理由も納得できるものだったから、受け入れも仕方がない事ではあった。

「ですが、よかったでしょう?」

「よかった?」

 無垢なあの娘を、もっと幸せな結婚ができたであろう娘を、こんな場所に行かざるを得ない状況に追い込んだ事実は、決して「よかった」とは言えない。

「そんなお顔をしてはあのお方に嫌われてしまいますよ」

 無意識のうちに、眉間に皺が寄る。

 同時に、小さな指がその場所に触れたことを思い出す。

「あれは……違う」

「そうですね。十も年上ですしね」

「違うと言ったぞ」

「三十人も女性を侍らせていますしね」

「エルネスト!」

「はい、陛下」

 生まれたときから傍にいる男は、何もかもを見透かすような目でハロルドを見上げ、微笑んだ。

「少しぐらい我儘を言っても許されると思いますよ」

 我儘なら、すでにもう通している。

 皇帝としての重要な責務の一つを、拒否していることだ。

「……余計なことはするな」

「はい、陛下」

 丈の長いマントを肩の留め具に固定し、エルネストは如才なく膝を折った。

「行ってらっしゃいませ」

 優雅な礼を取っている侍従を尻目に、足音も荒く私室を出た。

 近衛騎士たちが従うのに苦労しそうなほどの勢いで廊下を進み、しばらく険しい表情で前だけを見ていたが……。

 不意に、その歩調が緩んだ。

―――目を閉じて、今日の事でも明日の事でもなく、生涯で一番幸せだったことを思い浮かべて。

 優し気な声が、耳元で聞こえた気がした。

「陛下?」

「……」

「どうかなさいましたか? 陛下?」

「いや」

 近衛騎士の声に我に返り、素早く首を振る。

 このろくでもない生涯で、幸せだったことなど思い浮かびもしない。

 人間は醜い生き物だ。そんな人間たちの権力の頂点にいるということは、その汚濁にまみれ穢れ切っているということでもある。

 神が本当にご覧になっておられるのなら、こんな汚い男など見捨ててしまわれるだろう。

 彼女もそう。

 ハロルドのような男の傍になど、居たいとも思うまい。

 もう一度頭を振って、前を向いた。

 たとえ神に見捨てられようとも、己にはするべき責務がある。

 その道のりは険しいが、立ち止まってしまうことも膝を折ってしまう事も許されはしない。

「おはようございます、陛下」

 まだ早朝にもかかわらず、職務熱心な文官たちが働き始めている。

「おはようございます、陛下」

 その手に握られているのは大量の書類。

 彼らがこなす仕事量は、おそらくは眩暈がするほど多い。

「おはようございます、陛下」

 繰り返される挨拶の言葉に、ひとつひとつ頷きを返して。

 忙しそうにもかかわらず、律義に立ち止まってこちらに頭を下げてくる彼らとともに、今日も一日困難に取り組むのだ。

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