第23話

「陛下」

 ハロルドは書類にサインする手を止め、己の倍ほどの年齢の叔父を歓迎するべく腰を上げた。

「フィドール候」

 相変わらず、シルバーグレーの長い髪がいやに色艶の良い男である。

 ネイサン・フィドール侯爵。彼は先々代皇帝の十三男として生を受けた。母親の身分が低かったこともあり、成人すると同時にフィドール侯爵家の娘婿となった。領地が辺境で、それほど裕福でもなかったことから、血みどろの争いからは一歩も二歩も引いた所で生き延びることができた。

 そして現在はハロルドの宰相として、この広大だが問題の多い国を支えている。

「早い時間に申し訳ございません。至急お耳に入れておきたい案件が」

 どんなに早朝でも深夜でも、彼の長い髪はアイロンでも当てたかのようにまっすぐである。顔は年相応に皺があり、鋭いその眼つきなどは老獪といってもいいほどだが、こだわりがあるのか髪だけは二十年前から変わらない。

「またリベリス王国の越境か?」

 天使の輪が常に三連になるほどくっきりと刻まれた頭を左右に振って、宰相は険しい表情のまま眉間をもんだ。

「ユクリノスの水源が枯渇するかもしれません」

「まさか!! あそこはマシェット山脈の麓だ。雪解け水が常に沸き、水量もたっぷりだったはずではないのか」

「一週間ほど前に起きた地震の影響だとか。日に日に水量が減ってきているそうです」

 ハロルドはがたりと椅子を後ろに押しのけ、執務机から離れた。

 大股に近づいたのは、窓から一番遠い壁。そこには巨大な地図が貼られている。

「ユクリノス。コーラス。メルボル」

 ここ最近、水源の異常が出てきたという都市を目で追う。

「……本当に地震か?」

「確かに、見事に国境付近の街ばかりですが……実際に私の手のものが水源の様子を見に行っています。ごまかすのは難しいのでは?」

 エゼルバード帝国が興る前からずっと、この大陸では水不足に悩まされてきた。

 人間は水がないと生きていけない。

 つまり水源を一つ失うだけで、国力を大きくそがれることになるのだ。

「……青竜騎士団を行かせる」

「今の時期に大規模な軍事行動を起こすのは反対です」

「嫌な予感がする」

「水源の異常は確かに重大な問題です。ですが、穀物の収穫時期に軍事行動を起こして刺激すれば、リベリスは即反応してきかねません。それに……」

 宰相は一瞬だまり、腕組みをして難しい顔をしているハロルドに目を向けた。

「ユクリノスは皇妃ミッシェル様のご実家、ホーキンズ伯爵家の領地です」

「ハーデス公の権力範囲と言いたいのだな。わかっている」

 ハーデス公爵家は、昔からフィドール侯爵家と犬猿の仲だった。

 代々仲が悪く、時には紛争に発展することもあったというが、幸いにも今代は双方ともに文官肌であり、血を見るまでには至っていない。

「青竜騎士団の団長は、ハーデス公の息子だ。里帰りも兼ねての演習ということにすれば、角も立つまい」

 ハロルドは十歳ほど年上の男の顔を思い浮かべながら、己とは違い頭の巡りの早い叔父を振り返る。

「確か皇妃ミッシェルさまの従弟でもありましたね」

「はとこだ」

ミッシェル皇妃の母親とハーデス公の正妻とが従妹同士らしい。

 宰相が、その氷のように冷たい印象の目でじろりと甥を睨んだ。

「さすがお詳しい」

「候から聞いた話だと思うが」

 ミッシェル皇妃の話になると、宰相はとたんに不機嫌になる。

 彼女を皇妃にという話が持ち上がった時、ハーデス公派閥にこれ以上の力をつけさせたくない宰相は反対した。 もちろんハーデス公側も引くことはなく、それはもう国を半分に割りそうなほどの論争になってしまった。

 結局、宰相派の娘をもうひとり、第三皇妃としてあげるという話で落ち着いたのだが、それが彼がことさらに可愛がっていた孫なのだ。

 ほかに相応しい年齢の未婚の女性がいなかったからだが、年が離れすぎているとごねにごねた。

 ハロルドにしてみても、そこまで嫌なら皇妃になど上げなくてよいと言いたい。娘とも言っていい年齢の少女を妻にする趣味などないのだ。

 しかし事はそんな簡単な話ではない。

 この巨大すぎる国を平穏に維持していく為には、政治的なバランスが何より不可欠だ。

 特定の貴族に権力を集中させるわけにはいかない。

「最近またハーデス公が妾妃を後宮にねじ込んできたようですね。しかも己の養女だとか」

 一瞬、ハロルドの思考が止まった。

 脳裏を過るのは艶やかな黒髪。白い肌。

「なかなか尻尾を出さないですね。強かだ」

「宰相」

「もっと強い手段で調査するべきです」

 ハロルドはさりげなく宰相から顔を背け、執務机に戻った。

 宰相はさぐるような目つきでこちらを見つめ、やがて顔をしかめた。

「……まさかとは思いますが」

「いや、違う」

「それほど美しいとは聞いておりませんが」

「叔父上」

 ハロルドの声には、明瞭に警告の意味が含まれていた。

 それを聞いた宰相は、顔から不機嫌そうな表情を消した。

 氷のような無表情。

 老獪な政治家に心底を見透かされるような目で見つめられ、気づかれたのかと焦る。

「もっと手を増やしてこの件を調べたほうがいいな。……ユクリノスだけではない、国内の水源すべてだ」

ーーー気づかれた? 何をだ?

 ハロルドは手元の書類を決裁済み箱に入れながら、無意識のうちに眉間に触れていた。

 彼女が触れた、その場所に。

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