第21話

 部屋に戻ろうとしたとき、廊下の先の方から小走りに掛けてくる近衛騎士の姿に気づいた。

 何事かと見守っていたら、見知らぬ彼女はメイラの目の前で膝を折った。

 ユリがすかさず守るように立ちふさがる中、ほっそりとしたその騎士は荒い息を吐きながら肩を上下させている。

「妾妃メルシェイラさま。至急お部屋の方へお戻りを!!」

 柱の向こう側から、くすくすと笑う声が聞こえた。

 ちらりとそちらを見ると、同じ妾妃だろう女性たちが数人、扇子で口元を隠しながら笑っている。

「……テラスでこちらを見ていた方々です」

 あの子猫の一件か。

 小さく聞こえたユリの言葉に、メイラはひとつ頷く。

 おそらくは子猫と、例の黒いヤツ。あの質が悪い悪戯の数々は彼女たちの嫌がらせだろう。

 かまっていては切りがないと分かっているから、特にリアクションはとらない。

 子供のころ、街の子供たちによく虐められた。

 同年代の甥姪たちからも、しょっちゅう嫌な思いをさせられた。

 しかし所詮は子供のすること。思い返せばたわいのない悪戯の範疇を出ない。

 彼女たちのしていることは、それと似たようなものだ。

 メイラはパシリ、と扇子を閉じた。

 少し怯んだ相手をまっすぐに見て、にっこりと笑う。

「ごきげんよう」

 ポイントは、笑うことだ。朗らかに。

 メイラはユリを促して歩き始めた。

 少し戸惑った様子の近衛騎士が、その後ろからついてくる。

 部屋に戻る前から、尋常ではない出来事が起こったのだとわかった。

 すれ違う妾妃たちは皆、顔を隠して笑っている。時折はメイドや侍女までも。

 彼女たちは遠巻きにメイラの部屋の方を見ており、近づくにつれてその数が増えていく。

「メ、メルシェイラさま!!」

 シェリーメイの悲鳴に近い声が聞こえた。

「こちらへ来られてはなりません!!」

 一瞬足が止まる。

 ユリが先に行こうとしたがそれを制して。

 メイラはことさら優雅に見えるよう、ゆっくりと足を踏み出した。

 部屋は、無残なことになっていた。

 カーテンは切り裂かれ、ドレスは破かれ。

 絨毯や長椅子には生ごみ。ベッドには動物のものか人間のものか、糞尿が巻き散らかされている。

「……まあ」

 あまりにひどいので、かえって笑えてきた。

 ここまで部屋を荒らすのに、犯人が費やした労力は相当なものだ。

 生ごみはともかく、糞尿はどうやって運んできたのか。この量だと一人二人では無理だろうし、相当に臭ったはずだ。

「何事ですか!!」

 立ち尽くしていたメイラの後から、女官長がやってきた。

 彼女は呆然と部屋の様子を見回し、突っ立っているメイラを見下ろす。

「妾妃メルシェイラさま、これは一体」

「困りました」

 少し声に含み笑いが混じってしまったせいか、女官長の目つきが鋭くなる。

「メルシェイラさま」

 フランが三人のメイドを引き連れ近づいてきた。

 そのうちの一人、リコリスの腕に抱きしめられているものに、「あっ」と声が上がる。

 陛下の夜着を入れた螺鈿細工の箱だ。

 おずおずと差し出されたものを受け取って、感謝を込めて微笑みかけると、リコリスの大きな目がウルウルと潤む。

「何が起こったのかお話ししなさい」

 険しいフランの声に、彼女は大きく数回頷いた。

 リコリスの話は案の定、あまり要領がいいとは言えない。

 女官長が苛立ってきたのが分かったが、誰も途中で口をはさむことはなかった。

 要約するとこうだ。

 リコリスたちはメイラの不在中に部屋の掃除をしていた。

 食事の件でフランとシェリーメイが大膳所に出かけてしばらくした時、顔を隠した三人の女官が部屋に来て、マリアとレニーナを水回り部屋に押し込んだ。

 リコリスはちょうど、窓ふきをしていたのでテラスにいた。

 驚いて声も出せないで見守っているうちに、その覆面の女官たちは部屋を荒らしていく。

 隣の窓のカーテンを裂こうとしているのを見て、慌てて場所を移したのがメイラの寝室の外。

 テラスと行き来はできないが、換気の為に窓は開けていた。

 広間を散々散らかしている音を聞きながら怯えていた彼女だが、ベッド脇に置かれている螺鈿細工の箱に気づいて息を飲んだ。

 それが陛下からの拝領品と知っていたリコリスは、とっさに窓から侵入して箱を抱え、また脱出したのだ。

 窓は防犯上の都合で小さめの造りになっている。彼女ぐらい小柄でなければ出入りできなかっただろう。

 あまりにも小さな窓なので、箱を出すのに手間取って。

 その時に立てた音に気づかれ、女官が追いかけてきた。

 リコリスは箱を抱えたまま必死で庭園を走り、丁度お使いから戻ってきたポメラと合流。

 すぐにフランたちに報告が行ったという。

「……まあ」

 メイラはいまだ息も整わぬリコリスの腕に手を伸ばし、宥めるようにそっと撫でた。

「守ってくれたのね? ありがとう。怪我がまだ痛むでしょうに」

「……っ、いえっ」

「失礼いたしますメルシェイラさま」

 苛立たし気な声を上げたのはイザベラ女官長だ。

「私の配下の者にそのような不心得者はおりません! そのメイドの言うことは信用できるのですか?! まさかメルシェイラさま、陛下のお気を引くために」

「女官長」

 苛立ちつつも最後までリコリスの話を聞いてくれたことは評価する。

 しかしそもそも彼女はこちらの味方ではなく、リコリスはもとよりメイラに対しても懐疑的だった。

「貴方は部下の方々をそこまで信じておられるのですね。素晴らしい事です」

 己の部下が悪者にされるのを避けたいのは理解できる。

 女官はメイドや侍女とは違い、国家に直接雇用された官僚の一種である。知識人が多いと聞くし、男性並みな修練を積んでその職務についているのだから、相応のプライドもあるのだろう。

「ですが、わたくしのメイドが嘘をついているという根拠は?」

 だが、ただそれだけの理由で善人ばかりだとは言い切れない。

「貴方がご自身の部下を信じておられるように、わたくしもリコリスの言葉を信じます」

 必死で大切なものを守ってくれたリコリスを信じずして、誰を信じろというのか。

 きっぱりと言い切ったメイラの傍らで、ユリが立ち込める異臭に鼻頭に皺を寄せながら口を開いた。

「おそれながら女官長さま。第三者に公正な立場で調べて頂ければわかるでしょう。生ごみや糞尿をもって後宮内を歩いていたのでしょうから、相当目立っていたと思います」

 同意するように、フランも頷く。

「そうですね、あの分厚いカーテンを裂くには、果物ナイフやハサミでは難しいです。賊は剣か小刀か……鋭利な刃物を持ち込んだと思われます」

「まあ、大変」

 後宮内で刃物を持てるのは、近衛騎士だけという決まりがある。

 もし本当にそうなのであれば、女官長の責任問題以上に事は重大だ。

 己の配下を問いただし、カーテンを裂いた刃物を探し出すのは、彼女の進退を掛けた仕事になるだろう。

 顔色を青くさせたイザベラ女官長を見て、ほんの少しだけ気の毒に思う。

「とりあえずは……お掃除しましょう」

 メイラは足元に落ちているかんきつの皮を見下ろして、頷いた。

 そうだ、何はともあれこの惨状をなんとかしなければ。

 今夜の寝る場所はもとより、着替えすら無事かどうか怪しい。下手をすれば帰したばかりのサスランと商人たちを呼び戻す必要があるかもしれない。

 メイラのその言葉を聞いて、ユリだけではなくフランも、シェリーメイも、リコリスはもちろんイザベラでさえ、とんでもないとばかりの顔をした。

「メルシェイラさまはしばらく別の部屋に」

「いいのよ。少しぐらい手伝わせて」

「いけません、これは我々の仕事です」

「でもね、あなたたちがお掃除をしている間、一人で待つのは嫌よ」

「これは何事でしょうか」

 生ごみまみれの長椅子を見下ろして首を振っていたメイラは、聞き覚えのあるその声にはっと息を飲んだ。

「お取り込み中もうしわけございません、妾妃メルシェイラさま」

 後宮内で男性の声が聞かれることはほとんどないが、そうでなくとも、彼の涼し気な声色は女性たちの耳を引いただろう、

 部屋の入り口に立つのは、萌黄色の侍従服を着た中年の男性。白髪交じりのナイスミドルで、立ち姿が手本になりそうなほど美しい。

 一礼した彼は、無残な有様の部屋を見て眉を寄せた。

「エルネスト侍従長!」

「イザベラ女官長、いつまでこのようなところに妾妃さまを立たせておくおつもりでしょう」

「……っ」

「妾妃メルシェイラさま、良ければゲストルームの方へご案内します。ここはでは少々……」

 手にしていた黒い螺鈿細工の箱をユリに渡し、メイラは可能な限り優雅に見えるように膝を折った。

 この侍従長を前にすると、マナーの授業を思い出して背筋が伸びる。

「ごきげんよう、エルネストさま」

 何故ここにこの方がいるのか、考えるとものすごく嫌な予感しか抱けない。

 しかし聞かないわけにもいかず、拝聴する姿勢を取って目線を下げる。

 侍従長はしばらく黙り、やがて姿勢を改めた。

「妾妃メルシェイラさま」

 酷い惨状をあらわにした部屋。鼻が曲がりそうな臭い。

 足元には生ごみが転がっているし、破れたお仕着せを着たメイド、顔にあざを作った侍女、顔色がものすごいことになっている女官長、とにかく混沌たる有様だ。

「今夜十時。陛下が貴女様をお召しになられました」

 そんな中部屋に響いた侍従の美声に、女たちは皆、沈黙を選んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます