7
「そこのバラを」
「はい、メルシェイラさま」
目の前でユリが膝を折る。
パチリ、と音を立てて朝露を纏ったオレンジ色のバラを切る。
低い位置に咲いていた一輪で、咲き初めの濃い色合いのそのバラを、ユリは腕に掛けた籠に丁寧に入れた。
「あちらの白いバラも」
「はい、メルシェイラさま」
つい興味をひかれて、もう少し低い所の花を指さす。
ユリは優雅に膝を折ったまま、そのバラの茎を手に取って摘んだ。
不安定な姿勢にもかかわらず、すらりと伸びた上半身は微動だにしない。
メイラは己には無理だなと思いながら、籠の中身を覗き込んだ。
「これぐらいでいいかしら」
「大きな花瓶に飾るのでしたら、もう少しあったほうが見栄えがします。あとは私が」
「いいの。テーブルのちょっとした飾りに使いたいだけよ」
第一印象で思った以上に、ユリは良くできた侍女だった。
しかしその優雅な所作のひとつひとつに、一般女性では持ちえないスキルを感じてしまうのは気のせいではないだろう。
例えば、雨のタイルで滑りかけたメイラを支えるときとか。
届いた荷物を、左右の手で大量に持って涼しい顔をしているときとか。
今回のように、長時間の空気椅子的作業にもふらつきひとつみせないこととか。
「戻りましょうか」
「はい」
「お花を飾ったら、お茶にしましょう」
「はい、メルシェイラさま」
問題は、それが彼女だけではないことだ。
真夜中に水差しの水を持ってきてくれた時、ベッドでうつらうつらしながら見たフランの手には硬いタコがあった。
目立たない大きさだったが、あれはペンだこではないし、編み物や刺繍などをしてできる位置とも違う。
さりげなく触れてみた上腕は固く、やはり彼女にも戦闘の心得があるのだろう。
こうなってくると、気になってくるのはシェリーメイの普通さだ。
観察してみてもおかしなところはないのだが、だからこその違和感。
腕とか肩とか背中とかを眺めても己とそう違うようには見えず、ついつい彼女の行動を目で追ってしまう。
「……メルシェイラさま」
ふっと、斜め前を歩いていたユリが、メイラの進路をふさぐように立った。
彼女の墨色の侍女服の向こうに、白い服が見えた。
大柄なユリよりはるかに大きなその布幅に、相手が男性であると気づく。
しかしここは後宮。皇帝以外の男性が容易く侵入できる場所ではない。
「まあ、ダハート一等神官さま」
「こんにちは、メルシェイラ妾妃さま」
気弱そうな表情で神官の礼を取るその男は、後宮に入る時に妃たちに祝福をさずける役目の神官だった。
縦にも横にも大きい身体を丸く小さく屈め、ちらちらとこちらの様子をうかがっている。
この、いかにも人畜無害そうな容貌は、むしろ大いに気を付けるべきだと思う。
同じ神職としてのシンパシーもあるし、おっとりと優し気な口調には安心感がある。己でもそうと気付かないうちに距離が近くなり、親しく話し込んでしまうタイプの男だ。
しかしここは後宮。皇帝陛下のための女性の園。
神官とはいえ男性と気軽に話をしているところを誰かに見られれば、どんな醜聞になるかわからない。
「どうしてこのようなところに……ああ、神殿にいらっしゃったのですか?」
「はい。時折手入れはさせておりますが、女性だけではなかなか手が届かない場所もありまして」
「おつとめご苦労様です」
ここ西の庭園には奥の方に小さな神殿がある。
かつて子を亡くした妃が建てたものだと聞くが、庭園の背景になる大きめの木々の影にひっそりと佇んでいて、近づくのにためらうような昏い外観である。
できれば一度祈りを捧げに行きたいと思っていたが、彼が出入りしているのであれば控えた方がいいのだろう。
「では失礼いたします」
「ごきげんよう」
立ち去る彼の大きな背中を見送る。
ふと、その足元を見ていて違和感を覚えた。
あの離れの神殿に行っていたにしては、いやに綺麗なのだ。
昨夜は大雨が降り、神殿へ続く道はかなりぬかるんでいた。先ほどバラを摘みながら歩いていて、ドレスと靴が汚れるからこの先に行くのはやめようと思ったのだから確かだ。
もしかすると乾いた道が他にあるのかもしれないが、彼が今現れたのはまさにその、泥でぬかるんでいる道の続き。
あの巨漢の神官には、宙を浮いて歩く神力でもあるのだろうか。
「……メルシェイラさま」
低めの優し気なユリの声にハッと我に返った。
「お調べしますか?」
「……いいえ、かかわらないほうがいいと思うわ」
特にこんなところでは。
メイラは、泥はねひとつない真っ白な神官装束から目を離し、首を振った。
身を守るために情報は必要だが、藪をつついて蛇が出てくるようでは逆効果なのだ。
「そうね、あの方がどこから出てきたのかは知りたいところだけど」
「はい」
ユリはにっこりと笑った。
そう長い付き合いではないが、一瞬「おや?」と思ってしまう表情だった。
「駄目よ。もし問題があるなら、警戒されているでしょう」
「はい、メルシェイラさま」
すでにもう、何百回では足りない「はい、メルシェイラさま」という返答は、礼儀にかなった丁寧なものには違いないが、いろいろな意味を内包していると思う。
「……ではもう少しバラと、葉物もいくらかお願いしてもいいかしら」
「かしこまりました」
いつの間に居た。
ユリの背後には、見覚えのある部屋付きメイドの姿があった。
彼女たちは絶対にメイラと視線を合わせようとしない。そうするのが正しいマナーで、貴人はメイドを空気のように扱うものだ。
しかし今の今までユリと二人きりで庭園を散策していたメイラにとっては、まさに空気の中から唐突に表れたような感じだった。
むしろ、ダハート一等神官の登場よりも怖い。
彼女はユリから籠を受け取って、更に深々と礼を取った。
ユリの安定感のある中腰にも驚きだが、低く膝を折り頭を下げたまま微動たにしないメイドのこの姿勢も凄い。
もしかすると、使用人というのは下半身を相当に鍛えないとできないのかもしれない。
メイラはため息をついた。
「名前は?」
「ポメラと申します」
答えたのはユリ。できれば彼女から直接聞きたいところだったが、侍女がいるところでメイドは主人に直接口は利かないものだ。
「ではポメラ。お願いね」
明るい茶色い髪のメイドは、真っ白のホワイトブリムを飾った頭をもう一段低くした。
ここからまだ低頭するのか。
メイラはそんな彼女に心から尊敬の念を抱いたが、もちろん口に出したりはしない。
鷹揚に頷いて見せ、ユリを促して部屋に帰ることにした。
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