修道女、どの世界も世知辛いと知る

1

 メイラに与えられているのは、後宮内の妾妃用の建物にある一角である。

 後宮はいくつかの離宮が回廊で結ばれてできていて、皇妃はそれぞれひとつの宮に住まっているが、側妃には側妃用、妾妃には妾妃用の建物がある。

 メイラは妾妃なので、妃たちの中では下位であるが、そもそも皇帝の妃には違いなく、かつ高位貴族の娘ということもあって、建物内の広い一角を与えられている。

 現在皇妃は三人、側妃は七人、妾妃は二十人ほどいるのではあるまいか。

 もちろんそのすべてが陛下の閨に招かれているわけではない。

 そうなれば親の身分が幅を利かすのは当然で、メイラは比較的恵まれた環境にあるともいえる。

 広々とした室内は、第一皇妃のところには及ばないが品よく高級そうな調度品で整えられ、部屋付メイドの数も多い。

 連れてきた侍女の数も、妾妃という位にしては多いかもしれない。

 しかしそれでも後宮近衛の警護が常駐しているわけではなく、部屋の周囲に目の行き届かない場所があるのは仕方がなかった。

「……まあひどい」

 メイラは扇子を半開きにして顔の下半分を覆った。できるなら、ハンカチか何かで鼻をしっかり塞ぎたかった。

 鉄さびと腐った肉の匂いが、あたり一面に充満している。

「メルシェイラさまはお部屋の方に」

 ユリがさっとメイラの視界を塞ぐように立つ。

「子猫ね。可哀そうに」

 メイラは扇子の影でため息をついた。

 死んでかなり経つであろう子猫は、メイラには見覚えのない毛並みだったが、まだ相当に小さかった。

 チラリと見ただけだが、首が半分以上切り落とされていた。全部落とせなかったのか、落とさなかったのか。どちらにせよ、何者かが刃物で子猫を殺したことは確かだ。

 その死骸の腐った臭いは強烈だった。死後かなり経過しているようだ。

 そして石畳の回廊と壁に撒き散らかされた血はまだ新しく、赤かった。

 腐臭の酷さからいっても、この猫のものではないだろう。

 わかりやすすぎる嫌がらせだった。

 普通の貴族の令嬢であれば気絶してしまうレベルの。

 しかしメイラは死体という意味では見慣れていたし、それが子猫だという時点で憐れみしか抱けなかった。

「庭園に埋めてあげましょう」

 メイラはパチリと扇子を閉じ、静かに言った。

 ユリを押しのけはしなかったが、目をそらしもしなかった。

 この嘔吐感を催す臭いと血の染みは、しっかり処理しないと相当長く残るだろう。嫌がらせをした何者かは、その点をよく知っていたに違いない。

 青ざめた表情の部屋付きメイドたちが、近づくのをためらうような顔つきをしている。

 それはそうだろう。メイドとはいえ、未婚の若いお嬢さんたちなのだから。

「布を持ってきて、その仔をくるんであげなさい」

 ユリが行く手を遮っていなければ、自ら動いていたかもしれない。

 メイラは努めて冷静に指示を出した。

 誰もやりたがらない事は、誰かが明確な命令を出さなければいつまでも終わらない。

 やんちゃ盛りの子供たちに宿題をさせると時の、叱りもしないし諭しもしない、ただはっきりとやるべきことを理解させる口調で。

「貴方は水を汲んできて。お湯は駄目よ。シミが落ちないから」

 くすんだ金髪のメイドがハッとした表情で顔を上げた。

「貴方は洗濯室から重曹を借りてきて。絨毯のシミ抜きは急いだほうがいいわ」

 赤銅色の髪のまだかなり若そうなメイドが、コクコクと何度も頷く。

「メルシェイラさまはお部屋にお戻りを。あとは我らが」

 毅然としたユリの声がなければ、一歩踏み出した足でそのまま子猫の元へ行っていたかもしれない。

 メイラは扇子を握る手を小さく開閉した。

 拭きたい。

 あの子猫の周りに飛び散った鮮血を、モップでバシャバシャ洗い流したい。

「……なりません」

 確かに、こんなところでメイラが掃除をし始めると、誰に見とがめられないとも限らない。噂はあっという間に後宮中に駆け巡り、ハーデス公爵家の令嬢はメイドのようだと嘲笑されるのだろう。

「お戻りを」

「……では、任せます」

 顔を庭園の方に向けたとき、メイラはこちらに向いた複数の視線を感じた。

 コの字型の建物なので、庭園の植栽越しにテラスと窓が並んでいる。

 そのうちの幾つかに、お茶の時間だからか人影があった。

「メルシェイラさま」

 有無を言わせぬ口調でユリに促され、気づかなかった振りを装い再び歩き始めた。

「もう少し驚いた方が良かったのかしら。気絶してみせるとか、悲鳴をあげるとか」

 メイラは有能な侍女にちらりと目を向け、目だけで微笑みかけた。

「観客をがっかりさせた気がするわ」

「メルシェイラさまが気になさることではありません」

 メイラは口元を扇子で隠し、小首をかしげる。

「わたくしが気にしないで誰がするの? 贈り主はどなたかしらね」

「……お調べしておきます」

 今さら、この程度の嫌がらせを気に病むこともないが、改めて気を引き締めなくてはならない。

 ここは後宮。

 修道院とは違い、常に誰かに見張られ、常に誰かに足元をすくう隙はないかと計られている。

 皇妃に上り詰める気はさらさらないが、少なくとも三年間は生き延びなければならないのだから。

 身分と立場から言っても、空気のように存在感を消し去ることはできないだろう。

 たいしたことのない相手だと思われるのはかまわないが、馬鹿にされるわけにもいかない。

 手を出すのをためらう程度に確固たる立場を築かなければ、ミッシェル皇妃の役に立つどころか邪魔な敵だと排除されてしまいかねないからだ。

「……部屋の中なら拭き掃除ぐらいかまわないかしら」

 部屋に戻り、ドアの扉が閉まったのを確認してから、メイラはぽつりとこぼした。

 室内には自分だけ。

 珍しいこの状況に気が緩んだのだろう。つい漏らした一言に、我慢していたものが露になる。

 ユリは子猫の処理に出かけている。

 メイドたちもすべて出払っている。

 メイラはそっと周囲を見回した。

 台拭き用の布でもないかと探してみたが、見当たらない。

 少し考えて、メイドたちが出入りしている小さめのドアの方へと向かった。

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