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「ユリ・インホアと申します」
「……まあ、変わったお名前ね」
目の前の、メイラよりいくつか年上であろう女性は、人好きのする笑顔で頷いた。
「よく言われます」
女性にしては長身の、すっとした立ち姿は、彼女が女官というよりも武官に近い教育を受けたのだろうと知れる。
市井の者でも一向に構わなかったのだが、サスランはどこから探してきたのだろう。
一礼してメイラの荷物を監督し始めた彼女は、どこからどう見てもよく躾けられた侍女だった。
髪の色は明るい茶。目の色は薄いグレー。
顔立ちは整っていて、メイラよりよっぽど育ちがよさそうだ。
できれば公爵家とは無関係の、独自に動かせる人間が欲しかったのだが、どうなのだろう。
サスランの紹介なので、父の息がかかっている可能性は高い。
まあ確かに、身元の怪しい人間を皇帝陛下の後宮に住まわせることはできないので、やはりそれなりの身分のものなのだろう。
忙しなく動く家人たちを横目に、まさか後宮に上がろうかという姫が手伝いをするわけにもいかず、メイラはすでにもうぐったりと疲労感に見舞われながらソファーに座っていた。
手に触れるのは、柔らかな絹。
誰にでも似合うと言われている薄緑色の、高価そうだが特に目立った特長のないドレス。
肌にするりと寄り添う着心地の服など、身につけたこともなかった。
高価そうなものを見たときに常に思う、パン何個分なのだろうという勘繰りをする気にもならないほど、用意されたのは最高級のものばかりだった。
……メイラの目にはそう見えた、というだけで、ごく平均的な(むしろ質素な)後宮支度であるらしいのだが。
「ほう、なかなか見れるようになったではないか」
閉じていた目をこじ開けると、階段の少し高い位置に老いた公爵がいた。
温かみなどかけらも感じないその双眸が、ジロジロとメイラの全身を検分する。
「後宮に上がるにしては、色気がないな」
「無理を言わないでください」
修道女に色気を求められても困る。
「まだ何か?」
幾分不機嫌なメイラの台詞に、周囲の家人たちはあっけに取られた表情をしていた。
それもそうだろう。
前日までは自分たちすら見下していた、卑しい妾腹の娘なのだ。
しかし老人はそれを咎めることなく、薄い唇を冷酷にゆがめた。
「愛する娘の見送りに出て何か問題があるのか?」
「愛する? ……すいません、少し寒気がしました。風邪を引いたかもしれません」
「まあ、それはいけません。ショールをどうぞ、姫様」
絶妙のタイミングでそう言われて、どう反応すればいいのか分からずにいるうちに、薄い肩にふんわりとショールがかけられた。
まず軽い。そして暖かい。……きっと高価な毛糸を使っているに違いない。
メイラはかなり複雑な表情でショールを見下ろし、こぼれそうになる溜息を堪えた。
「……ありがとう」
「いえ、どう致しまして」
にっこりと微笑んだユリは、メイラが次の言葉を紡ぐより先に一礼して仕事に戻ってしまった。
テキパキと働くその姿は、見ていて気持ちいいほど。こういう女性が傍にいると、一緒に働いてみたくなる。
「侍女はこちらでも用意したのだが」
同じようにユリの動きを目で追っていた父が、相変らず何を考えているのか分からない平淡な声で言った。
「どこから見つけてきた?」
「……わたくしにもツテはあります」
そんなえらそうに言えるものではなく、そもそも父の配下の男からだが。
「身元ははっきりしているのだろうな?」
「さあ? 良く知りません」
老人の眉間の皺が深くなって、周囲の家人たちが浮き足立ったが、メイラはまったくもって無頓着に首を傾けた。
仕方がないだろう? 自己紹介を受けたのも数十分前なのだから。
「今ここでわたくしがなんと言おうとも、存分にお調べになるのでしょう?」
結い上げられた頭が重い。
こんなことの為に、髪を伸ばしていたわけではない。
複雑に編み上げられた髪は、頭上で大きく膨らませてあり、頭を動かすたびに重心がおかしなことになる。
「わたくしの信頼を裏切られたのなら、それはわたくしの不徳の致すところです。小娘の見る目を信じろとは申せませんが、最初から人を疑って掛かるのはいかがなものかと思いますわ」
「人は裏切る」
「そうですか? わたくしにはそんな経験はございませんけれども。・・・・・・・・・ああ、若干ひとり、幼きわが子を冬の寒空に某所に捨て置いた方がいらっしゃいましたが」
聞き耳を立てていたらしい家人たちが、作業の手も止めてギョッと身を強張らせた。
「わたくしはあまりよく覚えておりませんので、ノーカウントで」
恵まれていたとはとてもいえない幼少期を過ごしてきたメイラにとって、人間は基本的に優しい生き物ではない。
その心は天秤のようなもので、どんなに善性が高いと言われている者でも出来心というものを持ち合わせている。ニコニコと人好きのする笑顔の影で、神への信心を唱えながら孤児に暴力をふるったりするものだ。
しかしそれを裏切りと言えるのか?
「裏切られたと思うのは甘えですわ、閣下」
「父と呼べ」
「そう思うなとおっしゃったのはどなたでしたかしら」
ほがらかに、笑ってやる。
老人は不機嫌そうに顔をしかめ、鼻を鳴らした。
周囲の家人たちの顔色がすごいことになっているのが面白い。
かつてはメイラも、この父親のことを心底恐れていた。まるで悪役そのもののような顔つきも、厳しいことばかり言う口調も。
街へ下りれば、その統治の厳しさばかりが目に付くし、良いうわさは全くもって聞かない。
しかし、周囲の領地にくらべて税が高いわけではない。苦役が多いわけでもない。刑罰が重いからか犯罪率が少なく、むしろ治安がいいのだと気づいたのはつい最近のことだ。
「これから後宮に上がるのだ、言葉ひとつで浮き沈みもする」
「浮く必要は感じませんが、沈んでも困りますものね。わかりました、おとうさま」
今もまだ、恐ろしいひとだという認識は強い。
しかし、無暗に恐れる必要はないと開き直っている。
メイラは貴族女性が良くしている仕草をまねて、扇子を広げて口元を隠した。
その使い方ひとつとっても作法がある。
たとえば閉じたまま手のひらを軽くたたくのは苛立ち。
閉じたままの先端を相手に向けるのは敵意。
広げて口元を隠すのは、相手から一歩遠ざかる拒絶に近いジェスチャーだ。
「姫様、そろそろ馬車のほうに」
空気のようにいつのまにか近づいていたユリが、斜め後方から外出用の帽子をかぶせてきた。
帽子というよりも髪飾りのような、髪型を崩さないよう留めるタイプの小さなものだ。口元まで覆い隠すようなベールがついていて、貴族の女性は外出時に必ず身に着けるのがルールである。
「ああ、ごめんなさい。もうそんな時間なのね」
メイラは手を引かれてソファーから立ち上がり、視界を遮る淡い色合いのベール越しに父親を見上げた。
「それでは行ってまいります。どうかお身体にはお気を付けください」
少なくとも、後三年は。
言外の台詞を読み取ったのだろう、白いものの混じった眉がひくりと上がる。
ユリのエスコートで馬車に乗り込み、控えめながら豪華なつくりの扉が閉められて初めて、もしかすると父は見送りに来てくれたのかもしれないと思った。
馬車が跳ね橋を渡り、石で舗装された道路を進む。
重いカーテンの隙間を少し開けてみると、遠ざかっていく灰色の城が見えた。
いつも遠目に見るだけだった建物は、あいかわらず近寄りがたく武骨だ。
重そうな扉がゆっくりと閉ざされて、跳ね橋がギギギと音を立てて上がっていく。
メイラはカーテンから手を放し、まっすぐに前を向いた。
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