3

「メイラ!」

 一時間かけて帰宅したメイラに、修道院長のバーラが巨体を揺すりながら駆け寄ってきた。

 満足な食べ物にはとてもありつけない食環境なのに、彼女のその巨体はどうやって維持されているのだろう。

 毎度思うことを律儀に繰り返し思いながら、メイラはいつもと同じ微笑を浮かべた。

「ただ今もどりました」

「お、お客さまよ!」

「……ご領主様からでしょうか?」

 父は今夜にでも人を使わすと言っていた。

 エルブラン担当の文官で、なかなか有能な青年だと聞いたが、はてさてどういう男だろう。

 メイラがペラペラの上衣を脱ぎ、ハンガーにかけていると、奥のほうから聞き慣れない長靴の足音が聞こえた。

「はじめまして」

 奥にある客間のほうから来たので、明かりは彼の背後から差している。

 顔立ちはまったく窺い知れないが、ほっそりと長身の穏やかな声色の男だった。

 彼がゆっくりとその場に膝を折り、メイラのハンガーを持っていないほうの手を恭しく取った。

「ウェイド・サスランと申します」

「サスラン」

「はい」

「南方のお名前ですね」

「父がバーシャル方面の出で」

 メイラは小さく頷き、サスランと名乗る男に穏やかな微笑を向けた。

「お仕事をお願いしても?」

「はい、公爵閣下からすべてレディ・ロームよりご指示を仰げと」

 レディ・ロームとは、この場合はメイラのことだ。

 正式名はメルシェイラ・ハーデスなのだが、貴族の未婚の女性にはロームという敬称がつく。

 まあ、どこの貴族のお嬢様に対してでもレディ・ロームという呼びかけは有効で、どう呼べば失礼に当たらないかわからない女性に対して、よく使われる呼称だ。

「メイラとお呼びください」

「メイラさま」

 サスランは小さな頷きと共に、立ち上がる許可を求めた。

 もちろん無言で了承したメイラだが、側に立つ相手が思いのほか長身なので軽く目を瞬かせる。

 眩しい。

 男の背後から差す明かりが、丁度メイラの視界を邪魔している。

「立ち話もなんですし、客間へどうぞ」

 どうしてバーラの声が舞い上がり気味だったのか、明るい部屋で相手を見てすぐに察した。

 彼女はつまり、面食いなのだ。

 にっこりと微笑む男は二十代後半。このあたりではあまり見かけない濃い目の肌の色に、栗色の髪。乏しい光源ではよくわからないが、目の色も恐らく栗色。

 父親のくだらない懐柔策かと思ってしまうほど、サスランは整った造作の男だった。

 これから皇帝の側妾になろうかとう娘につけるのだから、間違いを期待しているのではないだろうが。

「……男前ですね」

「恐れ入ります」

 特に深い意味を持たないメイラの感想に、言われ慣れているのだろう、サスランは目じりに人のよさそうな皺を刻みながら頭を下げた。

 もしかすると、二十代後半よりもう少し年が行っているのかも知れないと、そんな事を考えながら軽く笑みを返す。

「こちらの事情は父から聞きましたか?」

「はい」

「時間があまりないのです」

「はい、お力になるようにと」

 メイラは、妾腹の小娘に対して見下した様子のない青年に、ひそかな高ポイントを付けていた。

 この国は隣国ほどに男尊女卑の風潮が強いわけではない。

 しかし、たとえ主君の娘であろうとも、妾腹、さらには正式な妃でもない平民の母親を持つ第八子など、たいして気を配る存在ではない。

 いや、下手にかまうと兄姉やその生母たちから目を付けられかねないのだ。

 これまで、修道院に捨てられたようなものであるメイラを気にする者は多くなかった。

 いたとしてもイジメに近いものだったり、時には下世話な誘いをかけられることすらあった。

 今回も名目上とはいえエルブランの領主の座につかなければ、有能な文官と父が称する青年と言葉をかわす機会すらなかっただろう。

「お願いしたいことはそう多くありません」

 メイラは椅子を勧めても座ろうとしないサスランの前で、同じように立ち尽くしたまま言った。

 表向きは敬意を払ってくれてはいるが、精神的な立ち位置はまだ定かではない。

 そんな中、たとえ身長差という物理的なものであろうとも、長身な彼から見下ろされるのはよくないような気がしたのだ。

「ひとつはこれまでどおりの商家との折衝です。わたくしは直接彼らとお会いする機会はないでしょうから、すべて貴方の裁量に任せることになります」

「はい」

「正直なところ……よろしい?」

 メイラは、己が他人にどう見えるか熟知していた。

 やせっぽちな、さして美しくもない小柄な娘。量が多めで毛艶の悪い髪の色は黒。

 日に焼けにくい肌は青白く、不健康そう。

 凹凸に乏しい体躯は女性的とはとても言えず、誰もが三つも四つも年下だと思う。

 さらに拍車をかけているのが、垂れ目がちで奥二重の黒い目。常に頼りなく笑っているような表情。

 造作の細かいところは父親似だが、このやぼったい雰囲気は母親似なんだろうとよく言われる。

 そしてメイラは、それらの女性としてはどうかなと思う点を全面に押し出していた。

 他人を油断させるのに、これ以上ない武器だからだ。

「貴方を信用して、お話しするわね」

 サスランが信用に足る男かどうかなど、わかりはしない。

 人間は誰もが二面性を持つ生き物であり、その天秤がどちらに傾くなど当の本人にもわからないだろうからだ。

 特に、この先三年間もの自由裁量を託されて、彼がどう出るかははっきり言って賭けだ。

「わたくしは、領地を治めるような教育は受けていないし、そもそも貴族としては末席どころか修道女しかしたことのない小娘でしょう? 知識も経験もないのよ」

 サスランはメイラの台詞を否定しなかった。

 それは大いに評価できる態度だったが、もちろん表に出しはしない。

「なのですべての権限を貴方に。急を要する何かが起こったときに、いちいちわたくしの指示を仰ぐ必要はありません」

 さあ、どう出る?

 メイラは誠実そうな男を見上げて、ゆっくりと笑みをはいた。

 小首を傾げて。無邪気な少女のように。

「ただ、報告はしてくださいね」

 ふと、サスランのひょろりとした体躯が、文官にしてはやけに精悍だということに気付いた。

 おそらくは、運動を欠かさないのだろう。たとえば……剣術のような。

「年に3回。街のできるだけ詳細な現状と、税収などの報告書を届けてほしいの」

 そして一度そういう目で見てしまえば、短めの短刀が腰に下げられていることとか、先ほど握られた手がゴツゴツと固かったような気がすることとか、自然体でただそこに立っていることまでが気になる。

「もう一度言います。わたくしには貴方を信用するしか手立てはありません。なので、信用します。ですが」

 しかし、サスランに武の嗜みもあるのだとしても、それを指摘したところで何の意味もない。

「常に監視していることを、気に悪くしないでくださいね」

 監視、という言葉に、ほんの少し反応があった。

「貴方を信用しているから、それを前提としての監視です」

 メイラは反応を確かめるように再びその台詞を繰り返し、ことさら無邪気ににこりと笑った。

「貴方が信用に足る働きをしていると、確認するためのものですので、あまり気にしないでください」

 もちろん、今のメイラに監視を雇うだけの手立てはない。

 修道女として閉ざされた世界に押し込められていた彼女には、外の世界、しかも裏方の仕事をするような人間との接点は皆無だ。

 しかし、その現状をサスランが知っているかどうかは別問題。

 公爵閣下の捨て姫の存在はよく知られているのかもしれないが、修道院に放置された、ということ以上を彼が聞いているとは思えない。

「監視者の正体を貴方に話すつもりはありません。その者からの報告は、わたくしと父の両方に届けられます。一応言っておきますが、すべて父からのご指示です」

 居もしない監視者の話を詳しくするのは藪蛇なので、ここまでが潮時だろう。

「……監視者の存在を話してしまわれてよかったのですか?」

 さすがに少し険しい表情になったサスランに、メイラは軽く首を振る。

 長身の彼の声は心地よく、音楽的な抑揚があって、聞いていると誰かを思い出す。

 それが教区の司祭の声だと思い至り、また少し彼に対する好意が増した。

「わたくし、最初から人を疑うのは好きではありません。信頼されるには、まず信頼することです。疑うことも時には必要なのかもしれませんが、わたくしは貴方を信頼すると決めたのです」

 時々、悲しくなることがある。

 偉大なる神の御為に尽くし、人々の助けになれる善き修道女でありたいの願うのに、この口からこぼれるいかにも偽善じみた台詞はなんだ。

 聖職者であるその外面を一枚剥がせば、なんと醜い魂があることか。

「市政はこれまでどおりに。自治の要望は聞いていますが、わたくしは後宮に上がってしまうので、どうすることも出来ません。商家から無理難題を言われた場合や、貴方が判断に迷うような事態が起こったら父に相談を。兄たちが何か言ってくるかもしれませんが、聞かなくていいです。皇帝陛下の側妾の領地に口を出す愚をそれとなくわからせてあげるだけで、黙るでしょう。……父はそのために、わたくしを領主の座に据えたのですから」

 メイラは小さく溜息をついた。

 半日前までは、何も持たない修道女だったのに。

 夜の空に月が顔を出すと同時に、『単なる修道女』である自分は別の生き物にならざるをえなくなった。

「あなたにお願いしたいことがもうひとつあるの」

 そして太陽が再び世界を照らす頃には、長年住み慣れたこの場所から引き離され、まったく違う女として歩みださなければならない。

 領主など柄ではないし、皇帝陛下の妾など、さらにもっと務まる気がしないのだが……果たして三年後、この場所に戻ってくることができるのだろうか。

「女性をひとり、見繕ってくださらないかしら」

 灰色の、着慣れた修道服。ゴワゴワと固い生地は、とても着心地が良いものではなかった。

 しかし、これを着ている間は、せめて神の忠実なる僕でありたい。

「わたくしへの忠節などは求めません。ですが雇用主へ対してのプロ意識の高い方を」

 今していることが、その範疇から遥かにかけ離れたものだという自覚はあった。

 しかし、日の出までの最後の数時間は、自分は修道女であると思いたかった。

 サスランが去ったら、神に祈ろう。

 御許を去るお赦しを乞い、再び戻ってくると誓いを立てなければ。

―――がっぽり稼いできますからね!

 祭壇の向こうの欠けたステンドグラス。三年後には必ず修理してみせる。

 あそこからピュウピュウ吹き込む極寒の風が、跪くと丁度顔に当たって痛いのだ。

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