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「……二億だと?!」
「少なかったでしょうか? それなら三億。もちろん先払いで」
お金は大事だ。何をするにも必要だ。
そして言葉を違えれば、金さえあれば、何でもできる。
「わたくしの個人口座に入れてくださいまし。閣下の個人資産はそれぐらい目減りしてもビクともしませんでしょう?」
「……」
「公的機関に入金の確認が出来るまでは、このお話は聞かなかったことに致します」
メイラは緩慢な仕草で首をかしげて、己の血肉の半分を形作っている老人を見返した。
あっけに取られた表情。
ぽっかりと空いたその唇は、指でも突っ込めそうだ。
「それから、後宮でお勤めする期限を決めさせてください。長くとも……三年です。和子さまが無事にお生まれになるまでが一応の目安。もし流れてしまった場合でも、三年あればもう一度懐妊までもっていけるでしょう……たぶん。三年が過ぎましたら、わたくし病気になります。伝染病などよさそうですね? お優しい閣下が宿下がりを皇帝陛下にお願いしてくださると信じております」
「……お前はその金をどうする気だ」
しばし呆然と口を開いていた老人だが、さすがにすぐに己を取り戻した。
メイラは内心舌打ちしながらも、表面上は非の打ち所のない『罪の無い笑顔』を浮かべ続ける。
「もちろん使います」
「ドレスにか?宝石にか? 確かに、公爵家の縁者だという体裁は必要だが、直系でもないのに着飾りすぎるなど……いや、そのほうがミッシェルさまの目がお前に向くか」
「あら閣下、後宮へ向かう荷造りにドレスなどは含まれていませんの? もちろんそんなくだらない無駄遣いをするつもりはありません」
「……」
「お金は好きに使います。目立つような浪費はしませんのでご安心を」
メイラはもう一度ニコリと笑った。
「美しくも可愛くもない娘が多少着飾ったところで、何になりましょう。あいにくわたくし、美人と評判の母親には似なかったようです。でしたら父親譲りの小賢しい真似でもさせていただきます」
「……お前は」
「わたくしは修道女です。余計な野心はありませんし、今申しましたお金以上のものも要求しません。……閣下のご命令にも、できる限りの尽力をしましょう。ただし」
メイラの黒い双眸と、老獪なその父親の同じ色合いの目とがまっすぐにぶつかり、絡み合った。
「陛下の妾になるのは三年間のみ。済めば古巣にもどります。それ以後は……わたくしをメルシェイラと呼ぶことはやめてください」
親子の縁はそれっきり。以後は他人として生きていく。
メイラの決然とした絶縁宣言にも、もちろん相手は怯まなかった。
「……なるほど」
しばらく見つめあい……いや睨みあい、やがて老人がうっすらと笑った。
「お前はワシに似たようだ。よかろう、金は用意しよう」
彼が笑う……笑うというよりも哄笑に近かったが……など想像もつかなかったので、メイラは相手に気付かれない程度に怯んだ。
「ただし、財務官をつける。こそ泥や詐欺師に騙し取られる可能性がまったくないわけではなかろう」
「不要です」
とんでもない! それではコブ付き、縁を切る意味がないではないか。
「騙し取られたら取られたで、それはわたくしの責任です。むしろ後宮にいる間に、良く知らない財務官とやらが私的に流用してしまうほうが嫌です」
父親であるハーデス公爵は、とても厳しい老人だ。
帝国内でも高い地位と権勢を誇り、先の皇位争いでも重要な役を果たしたと聞く。
そんな彼が治める領内で、その意に背く真似をする役人がいるとは思えないが、いかんせんメイラは妾腹、本妻や側妾の息のかかった人間が多数いるのはわかっている。
自分の存在は誰からも望まれてこなかったし、これからもそれは変わらないだろう。
そんな娘の持つ大金を、『信用できる』とはいえ他人が管理するなど、間違いが起こってください!と言っているようなものだった。
「わたくし個人の資産に誰の口も挟まれたくありません。閣下がそれを認めてくださらない限り、後宮でお役にたつことは出来かねます。どなたか他の方をお見繕いください」
メイラはゆっくりと席を立った。
椅子のクッションはメイラの身体の重みなどなかったかのように、もとのふっくらした姿にもどっている。なんと羨ましい。
メイラは自室のぺちゃんこの椅子を思い出し、こぼれそうになる溜息を飲み込んだ。
「……待て」
「いいお返事をいただけますなら」
「ふっ、小賢しいどころか口の利き方もなっとらんな」
「修道院育ちですので、上流階級の方々のようには行きません」
「だが、見所はある」
メイラはドアのほうへ向きかけていた身体をピタリと止めて、生物学上の父親へ胡乱な目を向けた。
もちろん、ぱっと見ただけでは気持ちを読まれないよう取り繕ってはいたが、老獪な相手には丸わかりだったろう。
「……金よりもっといいものは欲しくないか?」
「はあ」
「バッサム地方のエルブラン」
エルブラン? そこに何か金になるいいものがあっただろうか?
メイラが首傾けると老人は、まともな人間なら裸足で逃げ出しそうな表情で哂った。
「……その領主の指輪はいらんか?」
「いりません!」
メイラは反射的にブンと首を左右に振って拒絶した。
そんなもの、財務官を付けられるよりも数十倍厄介だった。
エルブランは商人の街。巨大な城砦都市で、潤沢なのだが自治傾向が強い。
生き馬を抜く有力商人が支配する都市で、ぽっと出の修道女が何をしろと言うのだ。
「一年の税収だけでお前が望む金額を大きく上回るぞ」
「……」
ほんの少し、いや正直に言えばかなり惹かれた。
だが、三年後のお役御免後は清貧なる神の娘にもどる予定の身には、あきらかに不必要かつ余計なものだった。
「あそこはほぼ自治権を認めている街だから、領主といえどもすることはあまりない。一年に数度、報告と言う名の納税の認可をするのみだ。その税収のすべてを、お前の持参金として認めよう」
「閣下ともあろうものが、問題のない収入源をやすやすと手放すとは思えませんが」
「ふん、ただあそこは、完全な自治権をと煩いのだ。エドワードもハインツも、武力で制圧するべきだと言って聞かぬ。故に最近、商人どもとも折り合いが悪い」
エドワードは長兄、ハインツは次兄だ。どちらもメイラより三十歳以上年が離れている。
「ワシは、自由経済の優位性を高くかっておる。強引に支配しようとすれば反発も強いであろう。最悪、商人どもが他所に流れていかんとも知れん」
「わたくしは、領主などになりたくありません」
「だが金は欲しいのだろう」
「それはまあ」
欲しい。喉から手が出るほど。
暖かい寝床。新しくなくとも、継ぎはぎのない服。
固くてパサパサのパンや、噛み切れないほどの干し肉は子供の食べるものではない。
雪が降る日には暖を取る薪。雨漏りのしない家。
教会に住まう親のない子供たちのために、お金はいくらでも必要だった。
「これから後宮へ行くお前に多くは求めぬ。……三年。約束の三年間、エルブランの名目上の領主を務めよ。さすれば望む以上の金が手に入る」
「…‥閣下のメリットは?」
「馬鹿息子どもとて、まさか陛下の妾妃の領地に手は出せまい」
なるほど、親子で意見の相違があるということか。
「三年後に、命の危険にさらされるなど御免です」
「それまでには状況を収束させておく」
「……誓って?」
「誓って」
メイラは、胡散臭いものを見る目で己の父親を見つめた。
そんな疑わしげな眼差しを受けて、老人は唇を緩めて笑った。
やはり嘲笑にしか見えないのは、それが本当に嘲笑だからか、老人が笑うのに慣れていないからか。
「信じられぬのか?」
「まあ最悪、領主権限で彼らの自治を認めてしまいますがそれでも?」
「……お前は意外と、商人どもと意見が合うやも知れんな」
メイラはしばらくして、父親の執務室から退室した。
そこにはいるときは、何の用があるのかも知らず不安だった。
退出するときには、皇帝陛下の側妾予定者、あるいはエルブランの正式なご領主さまになっていたわけであるが、本人にはその実感などまるでない。
使用人たちの、歓迎されざる妾腹の姫を見る冷淡な眼差しをどこか遠いもののように感じながら、メイラは公爵家の巨大な城から徒歩で帰路に着いた。
入り口の跳ね橋を下してもらうまでもなく、脇の使用人用の門を通ってひとり薄暗くなり始めた道へ歩み出る。
馬車など、贅沢なものは使えない。
そんなものにお金を使うぐらいなら、柔らかい毛布の一枚でも買ってくる。
メイラは薄暗い夕暮れに溶けそうな、己の灰色の修道服を見つめた。
これを着るのも、今日が最後か。
明日の太陽が昇る頃には、帝都にむかって出発する約束をしてしまった。
とりあえず支度金としてもらった金貨の袋に確かめるように触れて、忙しくなりそうな今夜に思いを馳せる。
やることは、沢山あった。
己が自由に使える時間は、刻一刻と減っていく。
足早に教会へともどりながら、メイラはこれからするべきことを頭の中で整理していった。
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