4
シュウくんとぼくの距離は縮まらない。時間だけが無意味に過ぎていく。君はきらきら光る粒子のようなものをふりまき、ぼくはそれを――浴びることもできず、ただ残り香を鼻に入れるだけだ。
しかし、転機は思いもかけない形で起きた。
朝読書の時間だった。クラスの女子の発言が、唐突にぼくの鼓膜を突き刺したのだ。
「シュウ、一年の女子に告白されたって本当?」
彼女の言葉に、ぼくは口から喉の奥へ、ずるりと手をつっこまれたような思いがした。シュウくんに彼女ができたら、もう夜な夜な彼への妄想を膨らますことができなくなってしまう。
ぼくのためにガムを噛んでくれるはずの歯は、知らない女が舐め回し、シュウくんの薄い唇はその女のために愛を紡ぎ、お互いに肌を触りあって、そのにおいを確かめ合うのだ。この妄想は、とんでもなく甘美なもののように思えた。でも対象がぼくでない、たったそれだけで燃えさかる憎悪になりうる。
奥ゆかしいシュウくんは、女子からの問いに声を潜め、でもクラス中には聞こえてしまう音量で答えた。
「うん、まあ……」
「えっ付き合うの?」
デリカシーのない、高い声が問いを重ねる。腹は立つが、その質問はありがたかった。ぼくもその続きが知りたい。
「いや、返事は濁したよ。俺、その子のこと名前もわかんなかったから、付き合うのは良くないと思った」
「いいんだよ! 付き合ってから分かれば! ていうか、私相手の子知ってるよ」
「えっなんで?」
「遠藤さんでしょ?」
それから後の会話は耳に入ってこなかった。シュウくんに彼女ができる、シュウくんに彼女ができる、シュウくんに彼女ができる――ぼくのなかでその事実だけが何度も反復した。むしろ、どうしてその可能性を考えつかなかったんだろう?
早くシュウくんが噛んだガムを手に入れなければならない、とぼくは焦る。今はたまたま、シュウくんに彼女がいないだけだ。今この瞬間にだってシュウくんに彼女ができてもおかしくない。それはぼくの抑圧された性欲が暴発するカウントダウンでもあった。
どうしたらいい?
もう、彼に直接お願いするしかないのだろうか?
――チャンスはその日の放課後にやってきた。さっさと帰宅しようと、ぼくが生徒玄関に敷かれた簀の子に座り、スニーカーの紐を結んでいると、そこにシュウくんがやってきたのだ。
シュウくんは下駄箱から靴を取り出し、ぱん、と踵のつぶれた運動靴を乱暴に三和土へ落とした。そういえば、今日は風邪気味だからプールに入らず、部活に出ないと言っていたことをぼくは思い出す。ぼくは少しでもシュウくんと二人きりになりたくて、わざと靴ひもを結び直していると、頭の上から声がかけられた。
「あのさ、れんげ、俺に言いたいことあるの?」
驚いて見上げたぼくに、シュウくんは言葉を続ける。
「いきなりごめんな。でも、なんか最近れんげとよく目が合うような気がしててさ。俺の気のせいじゃないと思うんだけど」
シュウくんはすごく言いづらそうな顔をして、歯切れ悪くぼくに伝えてくる。
「森本も言うんだ。なんか、れんげが最近俺のことよく見てるって」
ぼくは靴ひもを結ぶ指先から、徐々に冷えて固まっていく思いがした。ぼくのストーキング行為は、森本に勘づかれていたのだ。妄想の中の森本がにきび面に埋もれた目で、侮蔑したようにぼくを見る。そのことを考えると体中の毛穴が開いて、脂汗が滲み出た。
「なんか、俺が知らないうちに、れんげの気に触るようなことしたなら、謝るし。俺、声でけーから、教室で騒がしいだろ? そういうのでイラつかれてんのかな、とか」
シュウくんがぼくに謝ろうとしている。そんな必要はひとつもないというのに! 断罪されるべきなのはぼくの方なのだ。スクールカーストの底辺にいながら、君のことを好きになってごめんなさい。君が好きなあまり、いつも目で追いかけてしまってごめんなさい。君のシーブリーズを盗んでごめんなさい。君の机のなかに、君に噛んでもらおうと思って、新品のボトルガムを入れてごめんなさい。君のストローの吸いさし、噛んだガムが欲しくてゴミ箱を漁って、ごめんなさい。そして、そんな奇行をし続けるあまり、シュウくんに余計な気を使わせてしまって、ごめんなさい。そんな謝罪ができなくて、ぼくはシュウくんの前で泡を食ってしまう。座り込んだぼくを見下ろし、シュウくんは困ったように頭をかいている。
「言いたいことあるなら、言ってもらった方がすっきりするんだけど……特にない? まあ、いいか」
シュウくんがぼくに背中をむける。言いたいことならある。ぼくは、君にこのことを確認しないと夜も眠れないんだ。
待って。
喉から出した声は、すかすかの息になって空気に溶けた。シュウくんは気づかず、とんとんとスニーカーのつま先を叩いて、五本の指を狭い靴の中に詰め込んでいた。
「待って!」
焦って出した声は思ったよりも大きく、シュウくんが今度こそ振り返ってぼくを見た。
「あっごめん。どうした?」
ただ呼んだだけなのに、ぼくは肩を弾ませるほど緊張していた。君と話すのは、あのバスで同席したときだけだ。これが、二回目。
「あの、ガムが、欲しいんだ」
「ガム……? ああ、俺の机の中にあるやつ? あれ、れんげのだったんだ。いいよ、持ってって」
シュウくんは右手をまっすぐにして顔の前に立て、ぼくにあやまる。
「ていうか、ごめん。森本と中身少し食っちゃった。買い直した方が良い?」
ちがう、ちがうよ、シュウくん。ぼくはボトルガムなんかどうでもいいんだ。
下校時刻だというのに、周囲は不思議なほど人がいない。かえって静けさが耳の奥へ迫ってくるように感じられた。ぼくはぼくの言葉を待つシュウくんを待たせないように、リュックサックを自分の体の前に持ってくると、そこからキシリトールガムのパックを取り出し、シュウくんに言った。
「噛んで、そのガムをくれませんか」
「え?」
ぼくはガムの包装を剥いて、中から粒ガムをふたつ取り出した。銀紙に包まれた固いからだが、ぼくの手のひらの上でころころ転がる。
「これを噛みつけて、それをぼくにくれませんか」
おねがいします! ぼくは自分が出したことのないくらい大きな声を出して、シュウくんにガムを噛むようお願いした。静寂が質量を持ち、あたりに広がっていくような気がした。
シュウくんは、たっぷり五秒沈黙した後でこう言った。
「――いいよ、べつに」
シュウくんはそう返事をした後で、ぼくの手の平から粒ガムをつまみあげ、包装を剥く。
「これ、噛めばいいんだよな?」
ぼくが激しく頭を上下させると、シュウくんがそれを受けて口の中に大きな手でガムを放り入れた。シュウくんはこりこり、と音をさせながらガムの糖衣を噛み砕く。
ガムを噛み砕くシュウくんの横顔の右半分は、夕日に照らされていた。高い鼻梁とくぼんだ眼窩が影をつくり、その精悍さは彫刻作品を思わせた。その影は彼が顎を上下させるたびに、簀の子の間でがくがく揺らめいた。
やがてシュウくんが口を開き、その中に指をつっこんで唾液が絡んだあたたかいガムを取り出す。ぼくはそれを見て左手をささ船のように緩やかに曲げ、その下に右手を重ねた。
そしてぼくが重ねた両手をうやうやしく持ち上げると、シュウくんがその上にガムを置いた。
それは、ミサでもらう聖体に似ている。
これはキリストのからだ。十字架にはりつけにされて、見せしめに殺された神の子どものからだ。これはぼくの血となり肉となり、そして、ぼくの中に芽生えた自意識が貪るもの。
ぼくは誰にも聞こえないように、心の中で祈りの言葉を捧げた。アーメン。
神のからだは、夕焼けの陽を受けて光り、歯でつけられたであろう溝のおうとつに色濃く影を落としていた。
学友の聖体 トウヤ @m0m0_2018
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