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 放課後、ぼくとシュウはふたりで近くのスーパーへ買い物に行くことにした。今はテスト期間だから、シュウは部活がないのだ。クラスメートがそれぞれ、テスト勉強のために図書館やファミレスなんかに散ってしまうと、シュウはぼくのところに来てこう言った。れんげ、ガム買いに行こうぜ。制服で、放課後デート。趣向は少し変わっているかもしれないけれど、なんてワクワクする響きなんだろう。

「新発売のロッテのガムを試してみよう」

 道中、横断歩道の赤信号を待っているあいだ、シュウはスマホをぼくに見せて言った。

「果実感たっぷり、ジューシーで、果肉が入ってるってさ。果肉なんてガムにどうやって混ぜるんだろう」

 シュウはガムを買うとき、あるいはぼくに噛んだガムをくれるとき、ぼくがそのフレーバーを好むかどうかを気にした。スッキリ系か、甘い系か、つぶつぶが入ってるやつか。シュウが噛んだガムは結局ぼくが噛むことになるんだから、フレーバーを気にするのはもっともなことかもしれない。そこにシュウなりの人の良さが滲みでている。でも、ぼくはシュウが噛んでくれさえすれば、ガムの種類なんてなんでもいい。ガムから君の味がすることが大事なんだ。だけどぼくはそのことを言わない。ぼくのためにフレーバーについて悩むシュウがいとおしいからだ。君はきっと、ぼくよりもガムに詳しいだろう。世界中でたったひとりの、ぼくだけのためにくわしくなったのだ。

「ガム、あればいいな。売り切れてるってことはないだろうけど、この田舎じゃ入荷してるか怪しい」

 そんなことを憂いているシュウが愛しくてたまらなくて、シュウの横顔をみていたら、シュウがこっちを見て笑った。何ニヤニヤしてるんだよ、と唇を突き出して、ぼくを小突いた。

 ぼくはしあわせだった。信号が、ずっと青にならなければいいのにと願った。


 ――とても醜い夢を見た。

 ぼくは骨がぎしぎしと軋むのを感じて目を覚ました。時計の針は夜の二時を指している。部屋の電気はついたままだ。どうやら自室でテスト勉強もせず眠りこんでしまったらしい。

 さきほどまでのシュウくんとぼくの放課後デートはぼくの妄想に過ぎない。ぼくはすっかりシュウくんの恋人気分になって、厚かましいことに、なんと呼び捨てまでしていた。シュウ〜なんて。なんて醜いのだろう。実際のシュウくんはぼくのことを――名前や顔くらいは覚えてくれているが、きっと意識の中にだって入っていないだろう。口を利かないクラスメート。何を考えているかわからない、根暗なやつ。ぼくのためにガムを買ってくれるなんてことは決してないし、噛んだガムをぼくにくれるなんてこともないだろう。

 ぼくは両方の奥歯を何度か噛み合わせた。何もない隙間に、君の唾液が染みこんだガムがあることを夢想する。しかし、奥歯はむなしくカチカチと鳴っただけだった。

 ぼくはぼく自身を飼いならすことにとても難儀をしていた。ぼくという体の中にもうひとり別のぼくがいて、それは目も当てられないくらいとても醜い。それは、つくしやミントのような、繁殖力の強い地下茎植物によく似ていた。生命力が強く、外皮であるぼくが少しでもすきを見せれば、あっという間に芽吹いてぼくの自我を食い尽くした。ぼくはその、つくしに似た性欲がぼくの外皮を突き破るところを想像してみる。ぼくの鼻腔から、眼窩から、指先からそれは飛び出して、ぼくの体はハリネズミのようになる。

 この性欲は大変に強い力で、ぼくは夜な夜なそのあまりの痛みにえづいた。ぼくは深夜、一人の部屋で誰にも見つからないように衣服を噛んで息を殺した。ぼくの中に芽吹いた、ぼくというぼくの芽が萌えでないよう、見つめている必要があるからだ。

 だけどそれにだって限度がある。ぼく自身の努力だけでは、いつかぼくを養分にして育った性欲のすがたを、皆の前に顕現させてしまうだろう。それを防ぐため、ぼくはシュウくんが噛んだガムを手に入れる必要があった。しかし、実際に噛んだガムを手に入れることは難しい。彼と面を向かい合って噛んだガムをください、なんてとても言えたものじゃない。それなら、なにか別の方法で満たさないといけない。

 たとえば、噛んだガムじゃなくたっていいだろう、とぼくは考える。彼に関するものであれば、自分の中に萌芽した地下茎の醜い自意識を大人しくさせられるかもしれない。

 そのことに気づいてから、ぼくはシュウくんを目線だけでつけまわすことに執心するようになった。

 購買で買ったお弁当を食べた時の割り箸、紙パックのコーヒーを飲んだ後のストロー。シュウくんがそういうものをゴミ箱に捨てる瞬間を観察した。そして、ぼくもゴミを捨てるふりをしてそれらを拾った。シュウくんのだ液で少し濡れているストローは、昼下がりの光を窓から受けて妖艶に白く光った。野菜炒めのソースで先っぽが茶色く濡れて汚れた割り箸は、シュウくんのだ液が染みこんでいる。ぼくはそれらを誰にも悟られないように気をつけながら、制服の袖に隠して家に持ち帰った。

 しかし、それらはぼくが最も欲しい、「噛んだガム」の代替品に成り得なかった。割り箸はただの汚い割り箸でしかなかったし、ストローはただのストローでしかなかった。ぼくは君の歯形が欲しかった。奥歯の歯の溝を、波打った前歯の表面を、歯と歯の隙間を、ぼくの舌先で感じたかった。

 シュウくんは大変に育ちが良く、ストローを噛んで潰すようなこともしない。ぼくはストローの、丸くなったままの飲み口を恨めしい気持ちで見つめて、それを蛍光灯の光にすかした。彼がしていたようにそのまま口に咥えてみる。しかしどこにも彼は現れなかった。飲み口の穴を舌先でなぞりながら、ぼくは君からガムをもらうことを夢想する。

 彼のにおいも大切だった。シュウくんを観察していればわかることだが、彼は青色のシーブリーズを使っていた。青色のシーブリーズはせっけんの香りがする。そして、そのことに目をつけていたぼくは、ドラッグストアで同じ色のシーブリーズを買い求め、お風呂上がりにこっそり自宅で使用した。そうすると、肌からシュウくんの香りがして、ぼくはとても興奮した。しかしシーブリーズの香りは、ただの人工的な香料の香りでしかないことに、すぐに気づいてしまった。彼の肌から立ちのぼる香りでなければ、意味がない。自分の部屋に立ち込めたシーブリーズの香りと、自分のシャンプーの香りが混ざって吐き気がした。

 その日以来、ぼくの机の引き出しにはシーブリーズが眠っている。物が少ない、白黒のぼくの部屋。でも、唯一そこだけが、目の覚める青色をしていた。


 ストロー、割りばし、シーブリーズ。そういった代替品を持ってしてもぼくの中に巣食う自意識を満足させられないなら、いよいよ「本物」を手に入れる必要があった。必要なのはシュウくんが噛んで、その歯で跡をくっきりとつけた柔らかなガムだ。まず第一ステップとして、シュウくんにガムを噛んでもらう必要がある。

「あれ?」

 授業と授業の間の休み、みんなが次の授業の小テストに備えて勉強している間、シュウくんが声をあげた。すぐにまわりのシュウくんの友達が声をかける。どうした?

「俺の引き出し、誰かの忘れ物が入ってるんだけど」

 そういってシュウくんが手にしたのは、キシリトール味の粒ガムが詰まったボトルガムだった。

「これ、新品じゃん」

 シュウくんは椅子から立ち上がる。

「みんな、小テストの勉強中にごめん。俺の席にガム忘れてった人、いない?」

 クラスがその声にざわついたものの、誰も応えない。しかし、シュウくんの声かけは空振りに終わらず、女の子が声をあげた。

「シュウー、昨日別クラスの子とかここに来て勉強してたし、その子かもしれないよ。ほっとけば取りに来るでしょ」

「そっか」

 シュウくんは頭をかく。

「なんか騒いでごめん! 自分のだって人いたら俺の席から勝手に持っていっていいから」

 シュウくんはそう言って笑って、席に着いた。そのあとすぐに英語の先生が教室に来て、静けさが戻った。クラスのみんなはすぐにこの出来事を忘れるだろう。ボトルガムを学校に持って来るなんて変わったやつだと、そう結論づけて、意識はすぐに英語の小テストに切り替わったはずだ。

 そう、あのボトルガムはぼくが彼の机の中に入れたものだ。あれは忘れ物ではなく、ぼくから彼へのプレゼントだった。ボトルガムはひとつ六百円ぐらいする、高校生にとっては痛い出費だ。しかし背に腹は変えられない。これでシュウくんがガムを口にして、それをクラスのゴミ箱に捨ててさえくれれば……。

 しかし、ぼくの思惑は外れて、シュウくんはなかなかガムを噛もうとしなかった。シュウくんは育ちがいいのか、忘れ物のガムを自分のものにしようとしなかったのだ。なんて美しい心の持ち主なんだろうか。ぼくが匿名で捧げた彼への贈り物は、受け取られることもなく、捨てられることもなく、宙ぶらりんのまま、シュウくんの机の引き出しの奥で眠っていた。ぼくはときどき、机の奥から引っ張り出してはそれを眺めるシュウくんを見ていた。手放す気もなさそうなあたりが、ぼくに諦めをつけさせず、心を狂おしくかき乱した。彼の指――普段は塩素の混ざったプールの水をかき分け、水球のボールをつかんでいるその指に包まれているボトルガムが、羨ましくて仕方がなかった。


「シュウ、まだそのガム持ってんの?」

 二週間ほど経った頃だろうか。事態に変化があった。シュウくんと特に仲良くしているクラスメートの森本が、ボトルガムについて言及したのだ。

「もうよくね? 持ち主だってもう忘れてるだろ」

「いや、そうなんだけどさ。これが賞味期限やばかったりしたら捨てたり食っちゃったりすんだけど、なかなか賞味期限が遠くて」

 来年の六月だってさ。シュウくんがボトルガムをがしゃがしゃ振って笑う。

「ガムってビミョーなんだよな〜。もうちょっとこのままにしておくよ」

 シュウくんの言葉にぼくが落胆していると、森本が信じられないことを言った。

「じゃあ小心者のシュウの代わりに俺が食ってやるよ」

 ぼくの、数メートル先で繰り広げられるやり取りの、思いもよらない軌道にぼくは眉をひそめる。それは森本が噛むために買ったガムじゃない!

「じゃあ俺も食うよ。森本は共犯ってことで。二ついる?」

 シュウくんがとうとう、ボトルガムの封を開けた。そして、ガムを口に放り込む。あとは教室のゴミ箱に捨てられたガムを手に入れるだけなのに、そこに森本という危機が加わってしまった。しばらくしてから森本を盗み見ると、森本のあごも上下に、小刻みに動いていた。間違いなく、ぼくが捧げたボトルガムを噛んでいる。その隣のシュウくんもボトルガムを噛んでいるようだったのが唯一の救いと言えた。シュウくんの口の中では、いま、宝物のようなガムが、その歯と舌先でくすぐられ、もてあそばれているのだ。そのすぐ近くでは森本の噛んだガムがある。そのガムは歯石だらけの上の奥歯にくっついたり、飛び出した前の歯にくっついたりしているのだろう。考えただけで醜悪な光景に思えて、ぼくはとても不愉快な気分になった。

 森本というクラスメイトは、にきび面の、おかしな振る舞いをするやつだ。やさしい、人の良いシュウくんは邪険にしないので、森本はいつもシュウくんのすぐ近くにいる。そして、ぼくは森本なんかの噛んだガムなんか欲しくない。歯みがきもまともにしていないような男のガムなんか毒物にひとしい。そんなものがシュウくんの半径一メートル以内にあることが耐え難いほどだ。

 きっと今、シュウくんの歯の間ではガムの糖衣が優しく砕けているのだろう。星のかけらにも等しいそれが柔らかなガムに揉みこまれて、歯の溝で作られた美しい波のはざまで揺れているのだ。それはまるで夢のような光景だ。ぼくは妄想にふけて机に伏せる。

 その後の休み時間、ぼくは消しゴムのカスを捨てに行くふりをして、ゴミ箱の中にあるはずの、シュウくんが噛んだガムくずを探した。ボトルガムには普通のガムと違って、付箋のような明るい緑色をした捨て紙がついているから、他のゴミより見つけやすい。そして、それを二つ見つけてぼくは絶望する。教室の廊下側から、森本がげはげは下品な声で笑っているのが聞こえて、ぼくはますます不愉快な気分になった。


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