学友の聖体

トウヤ

1


 ぼくは君が噛んだガムを噛みたい。君が噛んでくれるなら、味なんてなんでもいい。できたら板ガムよりも粒ガムがいいと思う。粒ガムだったら、ガムのまわりをくるんだ糖衣を中ほど噛みくだいたものがいい。やわらかくなったガムの表面に残る、砂利の食感に似たつぶつぶをぼくは噛みしめたい。その糖衣はぼくのだ液とともに溶けて、甘みとなって消えていく。

 学校の授業が終わると、ぼくと君は学校からいっしょに帰る。帰る家までは同じじゃないから、道がバラバラになるまで、ぼくらは思わせぶりにゆっくり歩く。話すことはたわいもないことだ。英語の先生がきびしいとか、最近始まった物理の授業がすごく難しいとか、期末テストが近いとか。夕暮れの陽光がぼくらの影を道路に向かって長く伸ばしている。君の方がぼくよりもいくらかだけ身長が高いので、影が並ぶといびつに見えた。ぼくらの間でただよう会話が途切れた頃、ぼくはふと、思いついたように君にねだる。

「ねえ、ガムちょうだい」

 君はふたつ返事で承諾してくれて、肩に提げた学生カバンの中から、ざらざらとガムのコレクションを取り出す。歯にくっつきにくいガム、レモン味のガム、ライム味のガム、ソーダ味のガム……変わり種として、キャラメルも用意してくれていた。

「どれがいい?」

 君は味の違う板ガムを、トランプでばば抜きでもするみたいにぼくの方に差し出す。

「右から、キシリトール、グレープ、レモンだよ」

 そのときの君は、ワインの産地を教えてくれる、親切なソムリエのようだった。ぼくはその中からキシリトールを選び、君の指の隙間から銀紙に包まれたガムを抜き取った。君はそれを受け取ると、銀紙を剥いて唇に挟んだ。ガムはその体を上下に揺らして、唇のすき間に消えていく。口の中でもまれたガムは、きっとあっという間にやわらかくなっていくだろう。奥歯で噛みしだかれて、その溝を克明に写し取り、君の唾液を吸い込んでいく。

 ぼくは君がガムを噛んでいるあいだ、君のあごが上下に動くのを見つめていた。君の顔の内側では、ごりごりと歯が合わさっている。世界でたったひとりの、ぼくだけのために。

「もういいかな?」

 三十秒ぐらい経った後、君は歩みを止めて周りに誰もいないことを確認した。幸いなことに車も通っていなければ、人もいなくて、おあつらえ向きといった風情だった。君はぼくの肩を寄せて顔を近づける。噛んだばかりのガムが、唇のすき間から押し出され、親鳥がひなに餌を与えるように、それはぼくの唇に渡される――


 君は、だれかにそんなことを思われているなんてつゆとも考えやしないんだろう。高校生らしい青春を踏みしめ、君は高校生活を謳歌する。ぼくはそれを暗い物陰から、据わった目をしてじっと見つめている。

 教室の窓から差し込む光が眩しくて、ぼくはよりふかく自分の腕の中に顔を埋め、机に突っ伏した。今はお昼休みで、ぼくは昼食が終わった後だった。教室には雑談の声、椅子を引く音、リュックサックを開けたり閉じたりする音で満ちている。

 ぼくの名前はれんげという。ぼくは地味で、ものを言わない暗い少年に育ってしまったため、クラスでも目立たず、スクールカーストで最底辺にいる。でも、幸福なことにぼくのクラスを統率する貴族たちはみな気概が良く、ぼくのような下民でも分け隔てなく接してくれる。悪口を言われたり、声をかけても無視をされたりするようなこともない。ぼくが知っている限りでは、彼らは善良な支配者だった。

 ぼくが先ほど、噛んだガムをもらう妄想を繰り広げたクラスメートの名前は、秀といった。シュウくん。ありふれた名前であるが、彼らしい、曇った所のない、本当にいい名前だと思う。

「シュウ!」

 クラスの誰かが彼の名前を呼ぶ。そうすると、みんなが彼のことを見た。君はプールの塩素のせいで色が抜けてしまった、茶色い髪を陽光に透かして振り返る。にきびが僅かに浮かんだ頬、日に焼けた肌、はつらつとした笑顔。シュウくんのことは、クラスの誰もが放っておかなかった。

 彼が笑えば、ソーダの炭酸がはじけた。風に吹かれて、まっ白なシーツがぱたぱたとはためいた。常人には到底もちえないような爽やかさでみんなを魅了していたのだ。

「早弁するとさ、眠くなんね?」

 机の上にお尻を乗せ、ジャムのコッペパンを袋から出して、歯で引きちぎりながらシュウくんがそんなことを言っていた。あまり行儀は良くないが、そんなところもかっこいいと思ってしまう。森本がシュウくんに応えて笑っている。

「早弁して部活まで持つの?」

 シュウくんの部活は水球部だ。ぼくは「水球」がどんな競技かよく分からない。プールの中で、ボールを投げあうことしか知らない。ただ、シュウくんの広い手のひらに掴まれたボールはきっと幸せだろうと思う。ぼくは汗と塩素が混ざったにおいがする、彼の力強い指先を想像してみる。

「部活前に食う用と、部活後に食う用欲しいわ」

「それで夕飯も食うの?」

「食う食う!」

 シュウくんが頰にコッペパンを詰め込んだまま喋っているのだろう、その声はくぐもっていた。シュウくんはぼくよりも後ろの席だし、そうじろじろ見ることもできない。だから、ぼくは机に突っ伏したまま、頬の中へぎちぎちに詰め込まれた、唾液で湿ったパンを想像してみる。より深く腕の中に顔を埋めて。


 ぼくがこんなにシュウくんに強く執着するようになったのは、きっかけがある。たぶん、彼自身は覚えていないだろうけど、ぼくにとっては大きな衝撃だった。

 あれはひと月ほど前のことだ。帰宅部のぼくは学校の授業が終わるやいなや、帰途についた。さっそうと鞄を肩にかけ、誰とも目を合わせないように廊下を歩く。

 しかしその日は、いつもよりも学校が騒がしかった。その週はテスト期間だったから、部活動がなく、ほうぼうへ散っていくはずの生徒たちが校内に溜まっているのだ。その喧騒を振り切るようにぼくは学校を出る。これがあるから、ぼくはテスト期間が嫌いだ。自分のペースが乱されてしまうのだ。ぼくは重たい気持ちを引きずりながら、歩みを進める。早く自室へこもり、一人きりになりたかった。

 しかし、テスト期間はさらに憂鬱なものをぼくに運んでくる。

 その日、ぼくがいつも使うバス停に近づくと、ひとつ学年が下の、違う高校の女子高校生のグループが三人ほど固まってバスを待っていた。いつもは見かけない人たちだったが、おそらく彼女たちもテスト期間なのだろう。今日はタイミングが悪く、ぼくの下校時間と被ってしまった。彼女たちが待っているだろうバスには、きっとぼくも乗る。

 女子たちはキャアキャア笑いながら、「きーん」と響く声で騒いでいた。あまり言葉使いもきれいではなく、話の内容からクラスの誰かの悪口を言っていることが分かり、ぼくはますます嫌な気持ちになる。女子たちはぼくがバス停の列に加わると、一瞥だけ、(それも氷のように冷たい目線だ)を寄越し、それもすぐに興味を失って目線は元に戻った。

 やがてバスが来て、ぼく達の前に停車し、ブザー音を鳴らして乗車口を開けた。そして女子たちが乗った後に続いてぼくも乗りこむ。ぼくは精算機に電子マネーのカードを押し当てようと財布を出していて、かつ、財布に付いた小銭入れを開いたままにしていた。しかし、バスに乗り込む瞬間でさえ口を閉じることのできない女子たちは、なにかの会話のピークに達したらしく、女子のひとりが勢いよくうしろを振り向いた。そして振り返った時に揺れたカバンが、強くぼくの手元をはたき、ぼくの体はバランスを崩して傾いだ。ぼくは叫び声をあげる。うわっ! 

 ぼくはバランスを崩し、財布から小銭をばらまいてしまう。

 じゃらじゃらじゃら、コンコンコン……。小銭が床に跳ねる虚しい音が車内中に響いた。

「あー、すみません」

 冷たくて、ぶっきらぼうな声が上から降りかかる。さっきまでの甲高い声はどうしたというのか、喉を潰したような、発生する手間さえ惜しむような低音だった。ぶつかったことを申し訳ないなんて思っていません。声だけでそう伝えようとしているのがわかった。

 つまり、ぼくは侮蔑されたのだ。あの女子たちから下に見られていることは知っていたけれど、こうやって無視できない形で提示されると息がつまる。凌辱されたと言ってよかった。ぼくはバスの中で辱められたのだ。

 そして女子たちはどういう理由か「手伝わなくてもいい」と判断し、奥の方の席へ行ってしまった。ぼくが根暗で陰気なやつだから手伝わなくてもいいと判断したのだろう。こんなときにひとつも言い返せない自分が情けなくて、惨めで、ぼくは泣きたい気持ちになった。謝れよ、とか、キャアキャアうるせえんだよブタども、とか言い返せたらいい。でも、報復に会うことが怖くてそれもできない。羞恥と悔しさで目頭が熱くなって、腰を曲げて小銭を拾いながら、涙がこぼれそうになる。こんなささいな、軋轢で。

 そのときだったのだ。暗い空に輝く一番星、まばゆい朝日、空にかかる七色の虹のごとく、ぼくに声が掛けられたのだ。

「これも落ちてるよ」

 そう、たまたまバスに乗り合わせていたシュウくんが、ぼくに声をかけて、手伝ってくれたのだ。そして、彼の近くに落ちていた十円玉を拾ってくれた。ぼくはそのとき、恥ずかしいのと緊張で声が出せず、ちいさく会釈をしただけだった。でも、本当は抱きついてお礼を言いたかったくらいだ。ぼくが拾い終わるのを見計らい、シュウくんが言った。

「れんげ。ここ、空いてる」

 シュウくんが掛けているひとり用の席は、ちょうど前が空いていた。ここでもぼくはお礼を言えず、あたふた席に着いた。

 乗客全てが席に着いたことを確認し、アナウンス後に運転手がバスを発車させた。そうすると、エンジンの振動で座席シート越しにお尻が震え始める。ぼくは先ほどまでのやりとりに、まだ心臓を跳ねさせていて、落ち着かない。膝の上の学生カバンを抱え込むようにして、荒くなった呼吸を落ち着かせようと努めた。女子たちはまだお喋りを続けていたようだが、その耳障りな甲高い声も、どこか遠くから聞こえるようだった。

 しかし、次の瞬間ぼくの心はさらに荒れる。肩が、シュウくんによってつつかれたのだ。ぼくが振り向くと、シュウくんがおだやかに笑っている。

「災難だったな」

「うん……」

 それだけ言うとシュウくんは椅子に深く腰掛け、スマホを見始めた。きっと、彼の友達とラインで連絡を取っているのだろう。ぼくを意識の外へ追いやったと判断して、ぼく自身も前に向き直る。ぼくは学生カバンをさらに強く、潰れるほど抱きしめた。中に入れたノートや教科書が折れたり、しわになったりするぐらい、強く抱きしめた。目眩がするぐらい心臓が強く拍動し、太い血管に熱い血潮が流れていることを意識する。

 たったこれだけの出来事だ。ひどい目に遭わされたときにやさしくされた、たったそれだけ。

 こんな出来事なんて、シュウくんはもうきっと、忘れてしまっている。シュウくんはぼくのことなんて、「クラスで見たことがあるやつ」ぐらいにしか思っていないだろう。ぼくは彼からきまぐれで与えられた慈しみを勘違いしてしまい、その日の出来事を何度も何度も噛み砕いては、飲み込めないでいる。思い出のフィルムで何回再生してもそれはぼくの中で擦り切れることはなく、それどころか、日に日に陰影の濃さを増していくような気さえする。

 爽やかな笑顔。汗臭さをシーブリーズで誤魔化した体臭。思春期特有の、ぼくとは勝手が違う大きな身体。よく通る声。ひとつひとつぼくの持ち得ないものであり、強く焦がれてしまったのだ。

 ぼくは夜な夜な、彼と二人きりになって、手を握って、内緒の話をするところを夢想する。妄想の中のぼくは、現実と違って饒舌だ。どもったり、おどおどしたりしない。

 ぼくはシュウくんの目を見て、手を握る。シュウくんが笑った唇のすき間、そこから覗くばらつきのない歯の群れ群れ。ぼくはそれらに愛撫をする。現実では為しえないことを頭の中でやる。シュウくんは、きっとそんなこと知らない。思ってもみない。

 ぼくはシュウくんに出会うまでは、自分のことを優しくて感じのいい人間だと思っていた。でもそんなことはない。シュウくんの関心を引きたい。それも殊更強く。そしてシュウくんからも好かれたい。そんな厚かましくて図々しい願いを持つ、強欲極まりない人間だったのだ。

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