第2話 『真紅の女主人亭』その7
このままでは堕落してしまうかもしれない。
夢見心地でシオンは思う。
だが、白くて柔らかくていい匂いがして温かい、その感触には抗えない。
風呂の後、自分の部屋まで与えられた。
清潔で、隙間風も雨漏りもしそうにない立派な寝室。
肌触りの良い寝間着まで着させて貰った。
堕落の感触に顔を埋めて、次の瞬間には、シオンは意識は夢の世界に飛んでいた。
それくらい、与えられたベッドの寝心地は最高だった。
「……早く寝すぎたかなぁ……」
眠りについたのは夕方前。
目を覚ました時、空に星が瞬いていた。
『真紅の女主人』亭は夜半を過ぎても煌々と光を放ち、騒がしい音楽と踊る人々の足音が響いていた。
壁を通して遠く聞こえる声にはラフィのケタケタと笑う声も混じっていた。
「元気だなぁ……」
今日は色々有りすぎた。
そしてきっと、明日からも同じ速度で走らなければ、きっとルークには届かない。
そんな予感に突き動かされて、シオンはベッドから立ち上がる。
「剣くらいは振らないとね」
日課を果たしてもう一度寝ようと部屋を出て。
それから自分が寝巻き姿と気付いて慌てて部屋に戻る。
壁際に立て掛けた愛用の剣を手にとって、それから手早くいつもの服に着替える。
軽くて柔らかい寝間着に比べて、分厚く重くゴワゴワしている。
毎日着回して、汗の匂いが染み付いて臭い。
その感触すべてが何か愛おしかった。
「……あ……」
裏庭に降りると先客がいた。
月の光に照らされる白銀の大剣。
夜闇の中でも赤々と燃える髪。
太く大きく、それでいて女性的な柔らかさを残した肢体。
昼と変わらぬど派手な服を身に着けて、レオナは剣を振っていた。
「……レオナさん」
「ああ、シオンか。さっきは済まなかったな」
レオナは何でも無かったかのような顔色だ。
「いえ。ボクこそ失礼をしてしまって」
「いいんだ。別に大した事じゃない。ただ、生まれ育った習慣が抜けなくてな」
その場に固まるシオンに、レオナは構わず近づいて肩を抱く。
身長差で、まるでシオンの顔を胸元に寄せているようだった。
「まあ、厄介だよな。こういうのはどうにも」
「分かります。それに、故郷のしきたりを守るのは大切な事だと思いますよ」
「いい子だな。シオンは」
シオンからは見上げる位置にあるレオナの顔。下半分を黒い布に覆われても、通った鼻筋と形の良い唇は透けて見える。
大柄な外見と男っぽい表情に反して、レオナの顔の作りは端正だった。
月明かりに浮かぶ美麗な顔は、勇ましくも美しい女神像のようだとシオンは見とれてしまう。
「どうした……その、臭いか? 汗、かいているし……」
「ああいえ……綺麗だなって。思いました」
シオンの言葉にレオナの頬が赤くなる。
肩を抱いていた腕を思わず上げて、所在なさげに自分の頭を掻いてみる。
そんなレオナに、シオンはそっと肌を寄せた。
脇腹と脇腹が触れ合って、互いの呼吸と鼓動が伝わってくる。
熱くなった体温が触れた部分でゆっくり混じって、そこから一つに溶け合うようだった。
「それに、いい匂いだと思いますよ。なんというか、落ち着きます」
流れる汗の香り。
柄に巻く布が擦り切れ焼けた、その匂い。
腹の底から漏れる荒い息。
鍛錬に筋や肉が裂け壊れ、そして新しい肉が作られている。その匂い。
シオンにも染み付いた馴染みの匂い。
「そ、そうか? ……そうか、うん。シオンはいいな。いい子だ。それじゃあ……アタシの剣でも見ていくか?」
何が『それじゃあ』なのかは、言ったレオナ自身も分からない。
気恥ずかしさに負けて、身体を動かしたくなっただけだった。
「ちゃんと見ておけよ」
「はい、目に焼き付けます」
真剣なシオンの視線がレオナに刺さる。
こういうのに弱いんだよな、アタシは、と。そんな事を思いつつ、レオナは大剣を取り上げて、構えた。
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