第2話 『真紅の女主人亭』その6

 唖然とするシオン。

 くすくすと笑う三人。


「……あの、これは一体……」

「レオナは意外にお嬢様ですものね」


 涼しい顔でミケラが言い。


「レオナが育った氏族の問題ですわね」


 頬に掌を当ててドナが言った。


「氏族の、ですか」

「あの子達は鼻がとても敏感ですわ。匂いで相手の身体の様子が分かる程に」


 シオンの問いに、ドナは垂れた目尻をさらに下げる。


「大人か子供か。健康か病弱か。成熟しているか未熟か。子を為せる状態にあるか否か」

「それはつまり……」

「異性の匂いを意図的に嗅ぐと言う事は、あの子らにとっては、ええ。求婚……いえ、仔作りを今すぐしよう。それくらいの意味合いを持ちますわ」


 意地悪げにドナが笑う。対してシオンは青くなる。


「レオナの鼻隠しもその一つ。『私にはそのつもりはありません』と示すためのものですわ」


 ドナと同じ顔でミケラも笑う。

 釣り上がった目はそれでもどこか優しげだ。


「シオンってばやーらしー」


 そしてラフィの含み笑い。

 悪戯っぽいその顔は、実にわざとらしい。


「……ど、どうすれば良いのでしょうか?」


 唐突に、シオンの左右に柔らかい感触が現れる。

 流れるように目隠しが外され、白いキラキラした掌が、シオンの視界を塞ぐ。

 少し遅れて、清々しい香木のような香りがシオンを包んだ。


「どうすれば良いと言うよりも」

「そも、女性の身体を嗅ぐという事が」


 ドナとミケラの匂いの塊は、いまだに元の場所にある。


「ま、失礼な話よねー。ラフィはどうでも良いけどさ」


 焼け付くようなサウナの空気。

 その中で、シオンは冷たい汗を流していた。

 理解できない存在への、焦りと恐怖の汗だ。


「……どうやって……?」


 身体から発せられる匂いは、身体が動けば動いた先から漂ってくる。当然の話だ。

 ドナとミケラは、それを残して身体だけを移動させた。そうらしい。


 考えれば、先のレオナの部屋でもそうだった。

 ドナとミケラの動きを。その気配をシオンは感じ取る事が出来ない。

 視界の中にその姿を捉えていても、一瞬後にはどこかに消えている。

 そして気付けば二人の両手の中に捕らわれている。


「お気付きになりましたわね」

「それでは一つ、お教えいたします」

「シオン、貴方が言った『気配』の正体」

「貴方はそれに気付いておりますね」


 囁く声がシオンの鼓膜を震わせる。

 白い掌の柔らかさ。二人の香り。かすかに聞こえる息遣い。

 足元に感じる床が軋む僅かな感触。


「冒険者の間では。魔力等の超常的な感覚だと言われています」


 それが常識的な認識だ。

 事実、ルークは『そんな感じの何か』で、敵の接近や周囲の動きを捉えているのをシオンは知っている。


「でもボクは、魔法の才能はありません。そんなボクが感じられる『気配』と言うものは……」


 ドナのミケラの身体に、シオン自身の声が反射する。

 顔を覆う掌から感じる二人の鼓動と息遣い。

 一人の身体の中でも、強く香る部位とそうでない部位がある……。


「耳に入っても、聞こえたと感じきれない音。匂いと感じられない微かな匂い。感触と分からない肌の感触……」


「その通りですわ」

「無意識の識。それこそが『気配』の正体」


「「そう、例えば」」


 ふわり、と視界を覆う掌が開かれた。


「人の視野の限界は、眼球の中央点から目尻を繋ぐ線上まで」

「概ね顔の正面の真横よりもやや狭い。そのくらいですわね」


 広げた二人の掌が、丁度シオンの視界の隅にある。


「で、『視る』事の出来る範囲はそこまでなんだけど」


 目の前には、薄布の上に分厚い布を羽織ったラフィが立っていた。


「『見る』事の出来る範囲は。まあ大体こんなモンね」


 ラフィがくるりと手を回す。

 その範囲が意外なくらいに狭い。


「『見える』範囲の外側にある、曖昧模糊とした『視える』世界。それも『気配』の一つ。という事ですね」


「例えばそう、視えても見えぬ世界のこと」

「或るいはこう。聴こえ聞こえぬ音のこと」


 ドナとミケラの掌がシオンの両耳を塞ぐ。

 その周囲を空いた片手が舞い踊る。


 何も聞こえない。何も感じない。


「身体が動く事により生まれる風の微細な音」

「物が近づく事で出来る音の反響の変化」


 二人がシオンの両耳を開放し、四つの手がシオンの周囲でひらひら踊る。

 その動きに集中すれば、なるほどそこに『気配』を感じる。


「視野の隅の『視える』世界を『見える』よう」

「耳に入る、『聞こ』えぬ音を『聴き』とるように」


「意識の外の五感を持って世界を感じる事が出来るなら」

「シオン、貴方は目に依らず耳に依らず、全ての『気配』を識るでしょう」


 声を合わせるドナとミケラ。

 まったく同じに感じる二つの声も、注意深く意識すればそれぞれが二つの口から発せられているのが理解出来る。


「ここでフツーなら、視覚聴覚を鍛える修行を何年。って始まるんだけど。シオンは楽よね。【術技】のおかげで知覚力を上げる修行しなくていいんだから」


 あれは大変なのよねー。とラフィ。


「ええ。【術技:知覚強化(嗅覚)】と【術技:知覚強化(聴覚)】は習得しています」


「後は視覚と皮膚感覚ですわね」

「修行とするか【術技】を習得するかはこれから考える事といたしましょう」


 良い子良い子とドナとミケラはシオンの頭を優しく撫でる。


 ラフィは、話がようやく終わったとくるりと背を向け歩き出す。

 肌を隠す布が相当暑いのか、露わになった顔からはボタボタと汗が落ちていた。


「あーもうあっつい。ラフィは先に出るからねー」


「ラフィ。垢擦りもちゃんとするのですよ」

「ラフィ。シオンに背中を擦ってもうと良いですよ」


「却下却下。ラフィ、尻尾あるもん」


 ラフィはぱたぱたと尻尾を振って返答する。

 その尻尾が起こした風の音まで、シオンは聞こえるようだった。


「……それと、もう一つありますよね」


 その背中に聞こえるようにシオンは言った。


「無意識に『気配』に頼る敵を欺く技。それが目指す所ではないでしょうか」


 それがドナとミケラがやっていた事だ。


 ラフィは振り返りもせず、にやりと笑う。

 シオンの頭を撫でる四つの手が、今度は彼の頭を抱きしめる。


「ご明察ですわ、シオン」

「賢い弟子で嬉しいですわ、シオン」


 熱く焼けるようなサウナの空気。

 その中で、確かに感じるドナとミケラの柔らかく温かい肌の感触。芳しい二人の匂い。


「「きっと貴方はすぐに巣立ってしまう。それだけがわたくしたちには悲しい事」」


 遠慮の無い称賛が恥ずかしいのか。

 それとも二人の魅力に当てられたのか。

 自分でも理解できないまま、シオンは逃げるように部屋を出る。


 ふと気付くと、頬が緩んでいた。

 表情を引き締めようと頑張ってみて、それでもしばらく元には戻らなかった。

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