第44話 丸メガネの若い医者

「気分はどうですか」

 回診の時間だった。いつもの丸メガネを掛けた若い医者が私のベッドの横に立つ。まじめさを絵に描いたような物腰で、無駄な話はいつも一切しない人だった。私の意識が戻って最初の状態説明の時ですらそうだった。

「はい、大丈夫です」

「そうですか。大きなけがもないようですし、もう一度脳波の検査をして異常が無ければ、数日で退院出来ると思います」

「はい、ありがとうございます」

「それでは」

 その後、私の目や顔色を触診して、言葉少なにその若き医者は去って行った。忙しいのだろうが、あまりにそっけない対応に私は、もしかして私のことが何か気に入らないのかとすら思った。

「どうしたんです」

 ふと見ると、医者の背中を見送っていた今日も出勤前にお見舞いに来てくれていたマコ姐さんが、私の方に向き直り、私を見てにやにやと笑っている。

「どうしたんですか」

 マコ姐さんは、さらににやにやと笑う。

「なんですか」

「あいつお前に気があるんだぜ」

 突然マコ姐さんが言った。

「はい?」

 私はキョトンとする。しかしマコ姐さんは笑っている。

「えっ、そんなことないでしょ。だって、すぐどっか行っちゃいましたよ」

「バカだなぁ、あのぶっきらぼうな態度の裏に好意が隠れてるんじゃないか。男心の分からん奴だな」

「そうなんですか」

「そうなんだよ。男心ってのは意外と複雑なんだよ。ああいうインテリタイプは特にそうなんだ」

「どうして分かるんですか」

「分かるんだよ。あたしはそういうのに関しては異常に勘が鋭いんだ」

「はあ」

「どうだ?」

 マコ姐さんが私の顔を覗き込む。

「どうだって何がですか」

 私は全くマコ姐さんが言っていることが分らなかった。

「鈍い奴だな、あの医者がお前にどうだって訊いてんだよ」

「はい?」

 そう言われても鈍い私はよく分からなかった。

「今の男と別れて、あの医者と付き合えって言ってんだよ」

「えっ」 

 そんなこと考えもしたことがなかった。だから、私は戸惑った。

「まともな人生歩めるんだぜ」

「まともな人生・・」

 私にはまともな人生がよく分からなかった。そんなものが、私の人生にあることすら想像もしていたなかった。

「でも・・、私は・・」

 汚れた女・・。

「大丈夫。ああいうのは全部許してくれる」

 マコ姐さんは力強く言った。

「それも分かるんですか」

「ああ、分かる。あいつは全部許してくれる。そういう男だ」

 マコ姐さんは断言した。

「はあ」

 しかし、そう言われてもいまいちピンとこなかった。

「ちゃんとした人生だってあるんだぜ。今ならやり直せる」

 マコ姐さんは私を力強く見つめた。

「金だってあるぜ。医者だから。生活に困ることもない。殴られることも・・」

「・・・」

 マコ姐さんは、私の顔を覗き込む。

「・・・」

 私は答えに困った。

「でもやっぱり私は・・」

「・・・」

 マコ姐さんは、黙ったままそんな私の顔を見つめる。

「まっ、そうだろうな」

 そして、マコ姐さんは、一つため息をつくと、呆れ顔で言った。

 

 結局、雅男は一度も見舞いには来なかった。多分これないのだろうと思った。雅男は、そういう人だ。

「開けますよ」

「はい」

 私のベッドを囲むピンクのカーテンが開く。あの若い医者が入って来た。

 カーテンを開け、私を見た医者が慌てて目を反らした。

「?」

 どうしたんだろう。

「あっ」 

 ふと胸元を見ると、いつの間にかボタンが外れ、パジャマの胸の前がはだけていた。私は慌てて胸の前を合わせる。医者は、顔を反らしたまま顔を真っ赤にしていた。多分本当にまじめで純情な人なのだろう。

「ふふふ」

 そんな彼の姿に私は思わず笑ってしまった。若い医者はさらに顔を赤くする。

 医者の診察が始まると、マコ姐さんが変なことを言うから私は妙に医者を意識してしまった。それが伝わるのか、医者の方も私を意識して、いつもの回診のはずなのに妙な空気が漂う。

「・・・」

「・・・」

 なんとも気まずい沈黙が流れる。

「ケガのことですが・・」

 すると、突然医者が言い難そうに口を開いた。

「・・・」

「・・・」

 再びその場に沈黙が流れる。

「私が転んだんです。階段から落ちたんです。ドジだから・・」

 私は小さく言った。

「・・・」

 医者は黙って私を鋭く見つめた。

「でも・・」

「転んだんです」

「・・・」

 医者はしばらく私を見つめた後、諦めたのか、一つ大きくため息をついて去って行った。多分、彼は全てを察しているのだろう。全てを・・。

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