第45話 一本の赤い薔薇
ベッドを囲むカーテンを開けると、私のベッドの横の壁際にある棚の上に、一本の赤い薔薇が小さなガラスの花瓶に入れて飾ってあった。あの丸メガネの医者の心遣いだとすぐに分かった。
「・・・」
私はその真っ赤な薔薇を手に取って見つめた。不器用な表現だと思ったけど、でも、なんかうれしかった。
「もしかしたら・・」
マコ姐さんの言っていたことを思い出した。
「もしかしたら・・」
もしかしたら、こんな私にも、まともな人生があるのかもしれない。
「・・・」
そんな人生もありうるのか・・。私は薔薇を指先でくるくるといじりながら、一人ベッドの上で、そんなことを思った
「でも・・」
でも、雅男と別れ、あの医者と結婚して、私の人生が確かに安定して、幸福で、喜びに満ちたものになったとして、多分、そうなるのだろう・・、でも・・。
「でも・・」
でも、雅男との何か因縁のようなこのやるせない運命のような関係は、多分決して忘れることはない・・、そして、逃れることも出来ないし、切れることもないだろう・・。
それに決着をつけずに、生きていった、その先にある人生が・・、それが、むしろ、逆に辛いことのように思えてしまう自分がどうしてもいた。
「明日退院ですね」
「はい」
医者が、私の枕元にやって来た。とりあえず脳波にも異常がなく、外傷も大したことがなかったので、明日退院ということになっていた。
「あの・・」
「はい」
「薔薇、ありがとうございます」
「あ、はい」
医者は顔を真っ赤にした。
「・・・」
「・・・」
沈黙が流れる。医者は、やはり話すことが極端に苦手らしかった。
「あの・・」
沈黙を破るように、医者が口を開いた。
「はい」
「もし、もし、私にできることがあればなんでも言ってください」
「・・・」
マコ姐さんの言った通り、表のぶっきらぼうとは裏腹に、とても誠実でやさしい人なのだと、その口ぶりで分かった。
「結婚してください」
「えっ!」
いきなりだった。突然医者が叫んだ。
「僕と結婚してください」
私を見つめる医者の目は、怖いくらいに真剣だった。
「あ、あの・・」
あまりに突然のことに私は驚き、何も言えないでいた。
「す、すみません」
医者は、今度は突然そう言って、慌てて去って行った。
「・・・」
私は茫然とすることしかできなかった。あまりの展開のジェットコースターに、私の頭はついていけなかった。はっと我に返ると、同じ部屋の他のベッドの人たちから、笑い声が漏れている。
「あの先生はまじめだから、思いつめちゃうんだねぇ」
私がカーテンを全開にすると、家の前のどぶにはまり右足を骨折したという、隣りのベッドのおばあさんが笑いながら言った。
「でも、いい人だよ」
ベッドのマットレスを干したのを忘れ、固いベッドに、ついいつものようにダイブして骨盤を骨折したという向かいのベッドのおばさんが言った。
「・・・」
私は何も言えないでいた。あまりに突然のことだったし、恥ずかしかったし、頭が混乱して、何も考えられなかった。
「お前プロポーズされただろ」
「えっ」
夕方、マコ姐さんは、私のベッド脇にやってくるなりいきなり言った。
「図星だな」
「なんで分かるんですか」
「ふふふっ、あたしを舐めちゃいけないよ」
マコ姐さんはニヤニヤとドヤ顔で、私を見つめる。
「それも勘なんですか」
「そう」
「それはすご過ぎませんか」
「あたしはすごいんだよ」
あまりにすご過ぎて、私はちょっと引いた。
「ふふふっ」
「なんですか」
マコ姐さんは一人笑う。
「なぁ~んちゃって、病院中の噂だよ」
「なあ~んだ」
「でも、今マジで信じただろ」
「はい、ちょっと引きましたよ。そこまで分かるのかって」
そして、二人で笑った。
「あ、そうだ。明日退院です。言ってなかったですね」
「・・・」
しかし、喜んでくれると思ったマコ姐さんは、急に真顔になり、何も言わない。
「どうしたんですか。退院が決まったんですよ。喜んでくれると思ったのになぁ」
「・・・」
マコ姐さんは、やはり、黙ってなんとも厳しい顔をしている。
「退院したらうちに来い」
「はい?」
突然マコ姐さんは言った。
「同居してる彼氏には話してあるから」
「でも・・、私帰らないと・・、雅男が・・」
そこでマコ姐さんは、私をキッと睨みつけるように見た。
「まだ言ってるのか、そんなこと。完全に正気を失ってるぞ。お前の彼氏」
「・・・」
「本当に殺されちまうぞ。もう帰るな。あたしのところに来い」
マコ姐さんが私の両肩を掴む。そして、激しく揺すった。
「本当に殺されちまうぞ」
「・・・」
「殺されちまうんだぞ」
いままで見たことのないマコ姐さんの真剣な顔だった。
「私・・、でも・・」
「あいつはイカレちまってるんだよ。狂ってるんだよ。もう、絶対帰るな。あの部屋には。お前、本当に殺されちまうぞ」
マコ姐さんは、怖いくらいの真剣な目で私を見る。
「あたしはお前を殺させない。絶対に。だからお前をあの部屋には帰させない」
「・・・」
でも、私の心は決まっていた。
「でも、私帰ります」
「・・・」
「逃げちゃいけない気がするんです。これは私の何かとても大切なことなんです」
「殺されてもか」
私はゆっくりとうなずいた。
「・・・」
マコ姐さんは、なんとも言えない目で私を見つめた。
「私、まだ好きだから、愛しているから・・。だから、最後まで愛したいんです・・」
「・・・」
なんだかこの時、無茶苦茶な彼氏のことを話していた詩織さんの顔が浮かんでいた。
「私、惚れ抜くって決めたんです」
マコ姐さんは私を見た。
「何があっても、浮気しても殴られても裏切られても最後まで惚れ抜くって・・、たとえ殺されたって・・、詩織さんみたいに・・」
「そうか・・」
マコ姐さんは、諦めたみたいに小さくため息をついた。
「例え私の下を去って行ってしまったとしても、私は惚れ抜くの。あの人をそこまで愛した人はいないって、そう言えるくらいの女になるの」
「お前・・、強くなったな・・」
「ううん、もうやけだわ。ふふふっ」
私は笑った。
「私にはもう失うものなんかないもの」
「そうか・・、そこまで言われちゃな・・」
マコ姐さんは小さく笑った。
「お前らしいよ」
マコ姐さんは悲しい目で、ゆっくりと私の腕を掴んでいた手を放した。マコ姐さんの目には涙が浮かんでいた。
「恋愛は地獄だな」
「・・・」
「昔あたしが先輩に言われたよ。恋愛は地獄だぞって。憎んでいても、恨んでいても、どんなに傷つけられても離れられない。好きだから・・。そん時は分からなかったけど、今なら分かるな・・」
マコ姐さんは最後に寂しそうにそう言った。
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