第42話 ベランダに立つ雅男の背中

 あまりに色々なことが起こり過ぎて、あまりに辛いことが重なり過ぎて、私はもう、自分が今どうなっているのかさえも、なんだかよく分からなくなっていた。

「私たちもうダメなのかな」

「どうしたんだよ。急に弱気だな」

 マコ姐さんが私を見る。

「なんか自信なくなっちゃった」

 私はマコ姐さんの腕に頭を預けた。

「疲れたよ」

 マコ姐さんはやさしく私の頭を撫でた。

「疲れちゃった・・、私」

「まっ、そんな時もあるさ」

 マコ姐さんはやさしく私を抱きしめ、頭を撫で続けてくれた。

「うん」

「まだ好きなんだろ」

「うん」

「だったらしょうがねぇよ」

「うん」

「女ってのはそんなもんさ」

「うん」

「殴られて傷つけられて、無茶苦茶されて、それでも好きで・・、苦しんで、それでも好きなんだよ」

「うん」

 マコ姐さんがそこで私の顔をじっと見つめた。

「でも、死ぬなよ」

「・・・」

 マコ姐さんは私の顔を覗き込む。私はそんなマコ姐さんを見返した。

「はい・・」

 返事とは裏腹に、なんとなく私の中にその覚悟のようなものがあった。


 部屋に帰ると、またよりちゃんがいた。

「なんでよ」

 私は思わず叫んでいた。

「うるせぇ」

「なんでなのよ」

「うるせぇ」

「お前だって散々違う男に抱かれてるだろ」

「それは・・」

 それは雅男のため・・、生活のため・・。

「だから俺はお前に見せつけてやるんだ。俺と同じ苦しみをお前に味合わせてやるんだ」

 何とも言えない凶暴な顔が雅男の顔に浮かんだ。

「でも、それは雅男だって・・、分かってくれたじゃない。私だって好きでやってるわけじゃ・・」

「黙れあばずれ」

「あばずれ・・」

 その一言が私の心を貫いた。

「私の事、きれいだって言ってくれたじゃない。お前は汚れてなんかいない。誰よりもきれいだって、誰よりも―――」

「うるせぇ」

「あれはウソだったの。雅男がそう言ってくれたから、そう言ってくれたから、私は生きて来れたの。ここまで頑張ってこれたの」

 私は雅男に迫った。

「うるせぇ」

 雅男は私から目を反らす。

「あなたの言葉が・・・」

「うるせぇ、お前はあばずれだ。汚れきったあばずれだ」

 雅男は叫んだ。私の目から涙が溢れた。

「私・・、私・・・」

「泣くな。あばずれ。余計汚くなるだろ」

「うっ、うっ・・、私は・・、あなたの言葉があったから・・、それだけが支えだった・・」

 雅男の言葉だけで私は生きてこられた。雅男の言葉があったから、つらい現実の中で、歯を食いしばって這いつくばるようにしてでも生きてこれた。自分の体を汚してでも・・。

「うううっ」

 私の全てから大事な何かが抜けていくのを感じた。

「私が悪かったの・・。私が全部悪かったの・・?」

 私は泣き伏せた。そんな惨めな私を見下ろすように、よりちゃんが見ている。

「けっ、もういい、飲みに行って来る」

 雅男はそう言って、よりちゃんを連れてどこかへ行ってしまった。

「・・・」

 ただ一人泣く、私だけが取り残された。

 私は両方の拳を固く握りしめて、握りしめて、握りしめた。私は悲しかった。ただ悲しかった。こんなに悲しくて惨めな気持ちがあるなんて、人生でこの時初めて知った。


 深夜過ぎ、雅男が一人で帰ってきた。私は暗いリビングでずっと待っていた。

「おっ」

 電気を付けるとリビングにへたり込むように座る私を見つけ、雅男はのけぞるように驚いた。そんな雅男を私は下から睨むように見上げた。

「出てけ、もうお前の顔なんか見たくねぇ」

 私の顔を見ると、雅男は叫んだ。

「出ていかないわ」

「なに?」

 私の低く重厚な声に、雅男が少し怯みながら私を見る。

「あの時、決めたの」

 私は力強く雅男を見た。

「あの瞬間。どうなってもいいって。地獄に落ちても、世間からなんて言われても、お兄ちゃんに嫌われても、私はあなたを、あなたを愛するって」

「・・・」

「私は決めたの・・、あなたを愛するって・・」

 雅男は黙ってうつむいていた。

「あなたがあなたはきれいですって言ってくれたあの時に・・、誰よりもきれいですって言ってくれたあの時に・・」

「・・・」

「この世界一汚れた私を、きれいだって言ってくれたあなたを、あの時愛するって決めたの」

 私は凛とした眼差しで雅男を見つめた。

「うるせぇ」

 雅男は叫んだ。

「うるせぇうるせぇうるせぇ」

 雅男は狂ったみたいに叫んだ。

「うるせぇ」

 雅男は思いっきり叫んだ。

「甘えてんじゃねぇよ。辛いのはなぁ。辛いのはなぁ。お前だけじゃないんだ」

 私は絶叫し、立ち上がった。そして、雅男のところまでいくと、雅男を右ストレートでぶっ飛ばした。雅男は壁までぶっ飛んでいった。

「お前を絶対に愛してやる」

 倒れこむ雅男に私は上から叫んだ。

「うううっ」

 雅男は口元から流れる血を手の甲で拭った。

「絶対愛してやる」

 私は再び叫んだ。

「ぶっ殺してやる」

 雅男は起き上がると、私に向かって突進してきた。私は寸でのところでそれをかわすと、勢いあまって雅男はそのまま壁に激突した。

 だが、すぐに立ち上がった雅男はなぜか台所にすっ飛んでいった。そして、すぐに戻ってきた。

「!」

 雅男の手には包丁が握られていた。

「ぶっ殺してやる」

 雅男の目はやばいくらい血走っていた。

「お前を殺して俺も死ぬ」

 雅男の手は怖いくらいに震えていた。私は頭の片隅で、「ああ、私は刺されて死ぬんだな」と思った。緊迫した状況に反して、私は妙に冷静だった。

 私はただ雅男を見つめた。雅男は震えながら私をものすごい目つきで見据えていた。でも、やはり私はその時、不思議と恐怖は感じなかった。

「殺すなら殺しなさいよ」

 私は叫んだ。雅男は包丁を持ったまま震えていた。

「何をそんなに怒っているの?何をそんなに苦しんでいるの?」

 私はそんな雅男に向かって、子どもに言うようにやさしく訊いた。

「ううううっ」

 雅男は低く唸るように、悶えていた。

 雅男は包丁をぽろっと落とすと、膝から崩れ落ちた。そして、泣き始めた。

「雅男」

 私はそんな雅男のそばに行くと、覆いかぶさるようにして全身を抱きしめた。

「雅男・・」

「うるせぇ。触るな」

 雅男は思いっきり私を振り払った。私はぶっ飛んだ。

「なんで俺なんか好きになったんだよ。お前が俺を憎み続けてくれていたら、俺はこんなに苦しまなくてよかったんだ」

 雅男はよだれを垂らしながら叫んだ。そんな雅男に私は、再び抱きつく。

「もう気が狂いそうなんだよ。おかしくなりそうなんだよ」

「ごめんなさい」

「謝るな」 

 雅男は叫ぶ。

「ごめんなさい」

「謝るなって言ってんだよ」

 雅男は私を振り払うと、ベランダに出て、静かに一人泣き始めた。

「誰も俺の事を分かってくれない。俺は・・・俺は・・」

 雅男はベランダで一人泣いていた。言っていることもやっていることも無茶苦茶だったが、でも、そんな雅男の背中が堪らなく哀れで、私はその背中にそっと寄り添った。

「悪かったな」

 しばらくすると、雅男が背中の私にやさしく言った。

「ううん、いいの」

「俺はダメな男だ」

「そんなことない」

「俺は・・、俺は・・」

「もうそんなに自分を責めないで」

「・・・」

「雅男?」

「責めているのはお前だろ」

「えっ?」

 雅男の声が低くくぐもっていた。

「責めているのはお前だ」

 振り返った雅男は、またものすごい形相に豹変していた。

「お前が俺を苦しめているんだ」

「わ、私・・」

 雅男はものすごい目で私を睨みつけた。

「わ、私は・・」

 私はそのただならぬ様子に、たじろぎ後ろに一歩一歩下がった。

「お前なんだよ」

 そんな私に雅男は、ものすごい剣幕でじりじりと歩み寄って来る。

「お前なんだよ」

「わ、私・・」

「お前なんだよ」

 雅男は叫んだ。

「うをあああぁ」

 そして、雅男は大きく腕を横に振りかぶって突き出した。突如として私の目の前が真っ暗になった。

「あっ」

 そこから私の意識は消えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る