第41話 豹変していく感情

「あたしも昔は散々男に殴られたな」

 マコ姐さんが、ビルの屋上からタバコの煙を、ビル風に乗せるように吐きながら言った。

「そうだったんですか」

「まあ、殴らない男の方が珍しかったけどな」

「マコ姐さんの話はいつもすごいですね」

「まあ、殴らない男もいたけど、そいつはギャンブルに狂ってあたしの金使い込んで、最後借金作るだけ作って、自殺したな」

「壮絶ですね・・」

「まあ、そんなのばっかだよ。あたしの惚れた男は。ほんとろくでもないのばっかりだったな。なんで、女はろくでもない男にばっか魅かれちまうんだろうな」

「・・・」

「まあ、本来男なんてそんなもんなのかもしれないな」

 ため息交じりにマコ姐さんは言った。

「・・・」

「別れちゃえばいいじゃねぇか。いっそのこと」

 マコ姐さんが私を見た。マコ姐さんは直球ストレートだった。

「別れちまえばいいだろ。そうすりゃ楽になれるぞ」

「・・・」

 そよそよと吹くビル風が妙に心地よかった。

「好きなんだもん」

 自然とそんな言葉が私の口から漏れ出た。

「もう、どうしようもなく好きなの」

 私もなんだかよく分からなかった。でも、その気持ちだけは確かだった。

「そうか」

 マコ姐さんはやさしく微笑んだ。

「好きになっちゃったから」

「じゃあ、しょうがねぇな。女はそんな生き物さ。はははっ」

「うん」

「女は女らしく図太く、ネチネチ、執念深く男にすがって生きていくんだよ」

「はい」

「裏切られて浮気されて、それをねちねち恨んで、嫉妬して、陰湿な仕返しして、それでも愛さずにはいられない。それが女さ」

「はい」

 マコ姐さんと私は笑った。


 部屋に帰るとよりちゃんがいた。

「・・・」

 昨日あんなに、私たちは・・。絶望で全身の力が抜けそうになった。膝から崩れ落ちそうになるのを、私は必死で踏ん張った。

 雅男はバツが悪そうに、目を反らしている。

「帰って」

 私はよりちゃんに向き合った。よりちゃんは怯むことなく、私に対峙している。

「今日は帰って」

 しかし、私のいつにない剣幕に、よりちゃんはたじろぎ、ゆっくりと荷物を拾うと、黙って部屋から出て行った。

「・・・」

 私は雅男を見た。

「・・・」

 雅男はうつむきただ黙っていた。

「なんでよ。なんでなのよ」

「・・・」

 雅男は黙っている。

「何をそんなに怒っているの」

「うるせぇ」

「なんでそんなに私を傷つけようとするの」

 私は泣いた。

「うるせぇ、泣くな」

 雅男は勢いよく立ち上がり、私をキッと睨んだ。

「雅男」

 私は叫んだ。

「うるせぇ」

 雅男は私に突進してくると、私の髪の毛を掴んで引き回し、壁に突き飛ばした。

「ううううっ」

 私は、壁に沿って崩れ落ちた。

「もう、あったまきた」

 私も負けてはいなかった。私は雅男に突進していった。私にタックルされた雅男はテーブルまで押されて行き、そしてテーブルの角に背中をしたたかぶつけた。

「うっ」

 雅男が呻く。それと同時に私は、雅男の顔面をぶん殴った。

「てめぇ」

 口元に血を滲ませた雅男が私を睨みつけ、反撃してきた。私は押され、壁まで吹っ飛んだ。

「うらぁああ」

 そこに雅男が突進してくる。もう理性もへったくれもなく、完全な肉弾戦だった。私は突っ込んでくる雅男を迎え撃った。

 ピンポ~ン

 その時、緊迫した空気の間を流れるように、間の抜けた音を響かせ、玄関のチャイムが鳴った。私たちは同時に固まった。

 玄関を開けると、警察官が二人立っていた。

「あのぉ~、近所からうるさいと苦情が来てまして・・」

 若い方の警察官が言った。

「あ、すいません」

 私がそう言った時、雅男が背後からやって来た。

「誰が言ってるんですか」

 雅男が警官に挑むように訊く。

「いや、それはちょっと・・」

「誰ですか」

「それはちょっと」

「ちょっとやめて、すいません」

「誰なんだよ」

「じゃあ、そういうことで」

 警察官は特に雅男にかかわることもなく、二人はあっさりと帰って行った。

「民事不介入。やる気のねぇ奴らだ。警察なんて」

 雅男は警官が帰った後も毒づいた。

「誰だぁ、警察にチクった奴」

 そして、雅男は、隣りの部屋や上の部屋に向かって叫びだした。

「やめて」

「誰だこらぁ」

 雅男は叫びながら、壁や天井を叩いた。

「やめて」

 私は暴れる雅男に抱き着くようにして、雅男を止めた。

「うるせぇ」

 抱き着く私を力いっぱい雅男は振り払った。私は吹っ飛ばされ、後頭部をテーブルの角にしたたかぶつけた。

「うううっ」

「おいっ、大丈夫か」

「う、うん」

 雅男は急に血相を変えて飛んで来た。

「ごめん、ごめん痛かったか」

「ううん、大丈夫」

「本当か血は出てないか」

「うん・・」

「ごめん、ほんとごめん」

 雅男はそう言って、私を抱きしめた。

「なんで、なんで・・、そんなに私を傷つけようとするの」

 雅男の胸の中で私は力なく言った。雅男は黙ってうつむいていた。

「どうして・・、どうして・・、こんなにも傷つけ合わなきゃいけないの。傷つけ合わなきゃ、愛し合えないの・・」

「・・・」

「なんで・・」

「俺が暴力だからさ」

 雅男は吐き捨てるように言った。

「・・・」

「俺が暴力そのものだからさ。俺の中にはあいつから受けた暴力が今も生きているんだ。悪魔みたいに、俺の血を吸って生きていやがる。しかもそれはどんどん大きくなる。毎日毎日、俺の中の暴力は肥大化し続けてるんだ」

「・・・」

「もう俺に関わらないでくれ・・、」

「・・・」

「俺はもうこれ以上お前を傷つけたくないんだ・・」

 雅男は涙を落とした。

「・・・」

「俺は自分で自分が怖い」

 苦しみを絞り出すように言った。雅男は私を傷つけながら、自分も傷ついていた。

「お前まで殺してしまったら・・」

「・・・」

「俺はお前が好きなんだ。好きなんだよ~」

「雅男」

 私も雅男をに抱き着いた。雅男は小さく震えていた。相反する全く真逆の感情が雅男の中で同居し対立し雅男を壊し、苦しめている。それが痛いほど伝わってきた。

「俺は辛いんだよ。お前が毎日毎日違う男に抱かれていくのが」

「辛いんだよ」

 雅男は子どもみたいに泣き出した。

「ごめんなさい・・、でも・・」

「俺は辛いんだよ・・」

 雅男は苦悩に身を震わせた。

「ごめんなさい・・、でも、私は・・」

「そうやって復讐してるんだろう」

「えっ?」

 だが、突如として、雅男はまた豹変した。そして、あの鋭い目で私を睨みつけた。

「そうやってお前は俺に復讐してるんだ、復讐しているんだろ」

 雅男は私を睨みつけまた怒鳴った。またあの、暴力的な雅男が出て来ていた。

「ち、違う、復讐なんて」

「お前は、俺を憎んでいる」

「ち、違う」

「いや、お前は 俺を憎んでいる」

「・・・」

 言っていることが無茶苦茶だった。

「俺は好きなんだよ。お前のことが・・・、堪らなく好きなんだ。どうしようもなく好きなんだ」

 かと思うと、今度はまた私を抱きしめ泣き始めた。雅男は完全におかしかった。

「好きなんだよ」

 雅男は子どもみたいに泣く。

「好きなんだ」

 私を抱きしめるその力強さに雅男の気持ちを感じた。無茶苦茶な状況なのに、ふと、女の幸せみたいなのを感じている自分がいた。私もおかしかった。

「うううっ」

 雅男は私の膝の上に崩れ落ちた。

「俺はお前が好きなんだ。好きなんだ。だからだから・・」

「・・・」

 私も好きだった。堪らなく・・。

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