第34話 重なる災厄

  慢性化したメランコリーが、私の気力を奪い、生きることの残酷を絶望へと導いていた。

「なんでこんなに生きることが辛いの・・、なぜこんなに苦しいの・・」

 そんなことを思わずにはいられなかった。


「おいっ」

 突然声を掛けられ振り返ると、そこにはあの父が素性怪しく立っていた。以前最後に見た時よりも、その姿は更に荒んだように見えた。

「ちょっと、金かしてくれねぇか」

 父はちょっと卑屈ないやらしい笑みを浮かべ、私に近寄ってきた。私の居場所をどこで調べたのだろうか。そんなことよりも久しぶりに会った娘に第一声、金かしてくれという言葉に私は傷ついた。

「・・・」

「な、頼む」

 また、いつも私から金を借りる時にする、拝む真似をする。

「ほんとに、大変なんだ」

 酒臭い息で、娘の私に頭を下げる父の、その姿が哀れでもあり、イラつきもした。

「母さんもろくろく飯も食べてない」

「・・・」

 母の名に弱いことを知っていて、あざとく名を出す父のそのやり口に怒りを覚えた。だったら、お前が働いて食わせればいいだろ。

「な、頼む。ちょっとでいいんだ」

「・・・」

 私は黙って財布の中に入っていた全ての紙幣を掴み出し、乱暴に突き出した。

「助かるよ」

 そう言うと同時に、もう視線はどこか別のところへ行っていた。そして、踵を返し、私のことなどもうすでに忘れたかのように、どこかへすばしっこく行ってしまった。

「・・・」

 何とも言えない、疲労感と重苦しい沈鬱が私を襲った。久しぶりの親子の対面が、こんな形でしかないことに、私は何とも言えない感情と共に、堪らない疲労感に襲われた。

 重い足取りで、マンションの敷地内に入ろうとした、その時だった。なんだか背中に悪寒のような寒気が走って、私は身震いした。そして、何か嫌なものを感じて、ふと後ろを振り返った。

「!」

 電柱の影に誰かがいた。

「あっ」

 桐嶋だった。

 電柱の影から、桐嶋のあの重厚な一重瞼の細い目が、じとーっと、私を見つめていた。心底寒気の走る、それだけでカビが生えてきそうな湿り気のある粘っこい視線だった。

 私は背中に毛虫の這うような気持ち悪さを感じ、慌ててマンションのエントランスの中に入った。

「・・・」

 なぜ桐嶋が・・。あいつは刑務所にいるはず・・。私は背筋に冷たい戦慄を感じた。

 部屋に入り、鍵をかけても、恐怖は治まらなかった。

 父に会い、ただでさえ動揺していた私の心は、今激しく動悸を打っていた。

「・・、なんであいつが・・」

 

 私は次の日、ふと思い立って、久しくしていなかった兄の墓の墓参りをした。

 兄のお墓は、あのやさしかった兄のように、やさしく、私を待っていてくれたかのようにそこに立っていた。

「・・・」

 私はその前で手を合わせる。

「・・・」

 決別したはずのあの感情の重さが、また私の心の奥に重く鎮座した。

「私・・、どうしたらいいの・・」

 兄のお墓の前で私は泣いた。もう、戻れなかった。憎しみだけの私に戻ることはできなかった。もし戻れるのなら、どれほど、どれほど楽になれるだろうか。

「お兄ちゃんごめんね」

 私の中に堪らない自責の念が湧き上がる。

「ごめんね・・」

 重厚な刃のついたドリルのような自責の念が、高速回転し、私を切り刻んで切り刻んで、どうしようもなく私を責めた。

「うううっ」

 不条理な私の感情の激流のもつれの果ての運命に、私は泣くことしか出来なかった。

「何してるんだい」

 突然の鋭い声に、はっとして振り返ると、そこに母が立っていた。母は私を鋭い眼差しで睨むように見つめていた。その眼差しで、母の私に対する感情のすべてが分かった。

 重い視線が私を捉え続ける。この今の辛い時にこそ、母にやさしくされたかった。慰めてもらいたかった。しかし、それは今、全く逆の感情で私を攻め立てる。

「・・・」

 その眼差しに答える言葉は、私の中にはなかった。私は黙って去って行くしかなかった・・。

 母にだけは分かってほしかった。母にだけは・・。やさしかったあの母に、もう一度、私の全てを受け入れてもらいたかった。自分のこの切り裂かれるような苦しみを分かって欲しかった。

「・・・」 

 寂しい夕暮れの中、私はお墓のある山を一人歩いて下りた。カラスが、遠くで飛び立つ。その真っ黒なシルエットが、私の未来の不安のように見えた。

 沈んだ気持ちで部屋に帰ると、珍しく雅男がいた。

「あ、ごめん、すぐに夕ご飯作るね」

「いらねぇよ」

「えっ」

「どこ行ってた」

 雅男は私を鋭く睨む。

「えっ、別に・・」

 私は少し言い淀んだ。

「言えねぇところか」

「ちょっと買い物に行ってただけだよ」

 バチンッ

 言い終わらないうちに、突然平手打ちが飛んできた。私は床に倒れ、頬を押さえた。そして雅男を見上げた。雅男の唇が怒りで震えている。

「もういい」

 私の出先を詮索して怒っていたくせに、自分はどこかへさっさと出かけて行ってしまった。

「・・・」

 私はもう何も考えられずただその場に佇んだ。この底の無い苦しみの、どこまでも広がる絶望に、私はただ無力に打ちひしがれた。

 あまりに重なる辛さに、私はもう何かが壊れそうだった。

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