第33話 今でも

「よりちゃん、久しぶり」

 私はよりちゃんの背中に声をかけた。振り返るとやはりよりちゃんだった。少し大人びて垢ぬけた感じがしていたが、紛れもなくよりちゃんだった。

「あの・・、話があるんだけど」

 私は高ぶる感情と不安を出さないように、なるべく、声を抑えて言った。しかし、よりちゃんはすぐに察したようだった。しかし、怯むと思ったよりちゃんは、鋭い目つきで逆に睨み返してきた。

「雅男のことなんだけど・・」

「雅男は苦しんでる」

 鋭い声だった。

「えっ?」

「あなたのせいで雅男は苦しんでいる」

 今まで見せたことのない鋭い目つきでよりちゃんは私を見た。

「な、何を言ってるの?」

 よりちゃんの勢いに、逆に私がたじろいだ。

「雅男が苦しんでいるのは過去じゃない。あなたよ」

 よりちゃんは更に鋭く、私をキッと睨みつけた。

「えっ」

「雅男はあなたに苦しんでいるのよ」

 よりちゃんははっきりと言った。

「な、な・・」

 私には、よりちゃんの言っていることの意味が分からなかった。でも、それはなんとなくどこか確信をついているように感じて、私は動揺した。

「あなたは許してなんかいない」

「えっ」

 よりちゃんは更に鋭い目で私を睨み、叫んだ。すぐ横を歩いていく通行人たちが、こちらを一斉に振り返るのが分かった。

「あなたは今も、心の底では雅男を憎んでいる」

 今まで聞いたこともない、よりちゃんの低いドスの利いた声だった。

「心の底で憎んでいるのよ。雅男を執拗に憎んでいる。それを繊細な雅男は敏感に感じている」

「私は・・」

 すぐに言葉が出てこなかった。私は後頭部を思いっきりハンマーで殴られたようなショックを受けていた。

「違う・・」

 そう言いたかった。でも、私は何も言い返す事が出来なかった。私は・・、私は・・、私は雅男を・・、

「あなたは憎んでいるのよ」

 どこまでも追い詰めるよりちゃんの言葉は、私の心の中心を容赦なくえぐっていく。それは逃げ場のない、血の滴る屠殺場のようだった。

「今でもあなたは本当は心の底で、今でも雅男を憎んでいるのよ。雅男はそれが分かるの。とても純粋だから。それを感じている。あなたの隠された憎しみを、雅男は感じているのよ」

「・・・」

 私はただ打ちのめされ黙っていた。頭の中は痺れたように真っ白だった。

「雅男は私に何でも話してくれたわ。なんでも。あなたのことも、あなたのお兄さんのことも」

 よりちゃんは不敵な笑みを私に向けた。

「・・・」

「あなたが雅男を苦しめているのよ。雅男は今も苦しんでいる。あなたのせいで」

「・・・」

「あなたのせいなのよ。すべてはあなたのせいなのよ」

「・・・」

「かわいそうな雅男」

 よりちゃんは悲し気な声で目を横に流した。

「私、諦めませんから。雅男さんの事」

 かと思うとまた私を睨み据え、突然攻撃的に叫んだ。

「私は全部許せる。雅男さんの事だったら何をされても全部許せるわ。私なら全てを許せる。雅男の全てを」

 よりちゃんは私に向かって挑むように言った。

「・・・」

 そして、何も言い返せない私を見下すような目で見つめた。

「・・・」

 何も言い返せない打ちのめされた私を置いて、よりちゃんは勝ち誇ったように、くるりと背を向け、私の前から去って行った。その姿は、勝者の気品さえ漂わせていた。

「・・・」 

 私は戦意さえも失い無惨にその場に突っ立つ、薄汚れた敗残兵だった。

「・・・」

 私は何も考えられず、何も言葉を発することが出来なかった。全身から湧き上がる得体の知れない焼けつくような惨めさだけが、私をジンジンと苛んだ。


 大きなオレンジ色の夕日が、私が生まれる前から何千万年と繰り返してきたように、ビルの向こうに沈んでいく。

 あの時感じたジンジンとした打ちのめされ、焼けつくような痛みが、まだジクジクと心と体に這うようにまとわりついていた。それは返しのついた無数の針のように、もがけばもがくほど、逃れようとすればするほどに、ぐいぐいと心の奥へと痛みを深めていく。

「やっぱり、そういう関係だったか」

 マコ姐さんが言った。

「最初に見た時、ピンと来たんだよな」

 私はいつもの居酒屋、池田屋のカウンターにマコ姐さんと座っていた。

「いるんだよ。他人の男に妙に欲情する奴」

マコ姐さんがとっくりをお猪口に傾けながら言った。

「人のものが欲しくなるんだよ。そういう奴は。いるんだよ。そういうのが。まったく、一番性質が悪いんだよなぁ。そういうのが」

 マコ姐さんは、苦虫を嚙み潰したよう顔で言った。

「・・・」 

 マコ姐さんの言葉を頭のどこかで遠くで聞きながら、私はよりちゃんの言った言葉を思い返していた。

『あなたは今も憎んでいるのよ。雅男を憎んでいるのよ』 

 私はその言葉が頭から離れなかった。

「はい、おまちどう」

「おっ、ありがとう」

 カウンターの向こうから大将が、焼き上がったホッケの干物を差し出す。

「そんな奴の言うことなんか気にしなくていいぞ。ただのアホなんだから。ほら、ホッケの焼いたの来たぞ。熱いうちに食べな」

「はい・・」

 私はやはり、どこか上の空でマコ姐さんの話を聞いていた。

「私は今も憎んでいる・・。雅男を今も憎んでいる・・」

 その思いが私の頭の中をぐるぐると木霊していた。

「あたしがねじこんでやろうか」

「いえ、大丈夫です。私の問題ですから。自分で何とかしてみます」

「そうか。でも、なんかあったら遠慮せずにすぐ言うんだぞ」

「はい。ありがとうございます」

「あたしもそういう修羅場は何度も潜り抜けてきたからな、こう見えて、結構役に立つと思うぜ」

「はい、ありがとうございます」

「そんな水臭い言い方すんなよ」

 そう言って私の背中をバシッと叩いた。

「はい」

「まったく」

 マコ姐さんは笑った。

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