第32話 熊さんの奥さんの話の続き

「そっからは、もう何が何だか分らなかった。俺の知らないところで、なぜか結婚の準備がどんどん進んでいって、彼女のためなら死んでもいいて連中が、勝手にどんどん盛り上がっちまって、そして 気付いたら俺はウェディングドレスを着た彼女の隣りに立っていた。彼女の人徳なんだろう、結婚式にはものすごい数の人間が集まって来て、みんなでどんちゃん騒ぎ。もうそれは大変な盛り上がりだった。ほんとにお祭りみたいだったよ」

「そして、俺たちは結婚した。最初は何が何だか分らなかった。でも、隣りを見ると彼女がいる。俺は本当に彼女と結婚しちまったんだ」

「それから俺は変わったよ。漠然とした人や社会に向けられていた怒りも憎しみもまったくなくなった。ケンカだって全くしなくなった。したいとも思わなくなった。むしろ人にやさしくしたいと思った。人の役に立ちたいと思った。ほんとに俺は変わったんだ。人の圧倒的なやさしさに触れると、怒りや憎しみに囚われている自分がなんだかとてもちっぽけで、嫌な奴に思えてくるんだ。俺は彼女のその圧倒的なやさしさで救われたんだ」

「・・・」

「結婚しても俺は汁男優だったし、彼女はAV女優だった。普通の人たちはおかしいと思うかもしれないが、俺たちはそれでよかった」

「俺たちの愛は、他の男に抱かれている彼女を見て嫉妬するような、そんなみみっちい愛じゃなかったんだ。俺と彼女の繋がりは、そんな肉体で奪えるような薄っぺらいものじゃなかった」

「俺たちは純粋だったんだ。セックスなんかよりももっと深いところで繋がっていたんだ。だから、俺は、彼女の濡れ場を見ているだけで同じようにつながることができた。彼女が感じただけ、俺も感じた。彼女が絶頂に達すれば俺も絶頂に達した。他の男に抱かれているとか、そんなことは全然どうでもいいことだった。そんなことは小さなことだった。本当にどうでもいいことだった。もっと深い大きな繋がりが俺と彼女にはあったんだ」

「・・・」

「俺は幸せだった。幸せの絶頂だった。だけど・・」

「だけど?」

「気になることがあった」

「気になること?」

「ああ、彼女が時折見せる陰りだ。彼女は気丈で明るくいつも凛としていた。だけど、時折、何とも言えない陰りを見せるんだ。それは、もう何かとてつもない絶望を見て来たみたいな陰りだった。それが俺は堪らなく気になった。それに、彼女は実家の話を一切しないんだ。もちろん結婚式には、ものすごく盛大な結婚式だったにも拘らず、親族はもちろん親戚も誰も参加しなかった。まあ、俺も似たようなもんだったから、その時は気にしていなかったんだが」

「・・・」

「それなのに彼女は定期的にどこかへ行くんだ」

「・・・」

「俺はある日、悪いとは思ったが、出かけていく彼女の後を付けていった。電車に乗りバスに乗り、彼女が降りたところは、うらぶれた町のその中のさらにうらぶれた地区だった。彼女はどんどんその中の薄暗い迷路のような裏路地へ入って行く。そこにはバラックのような家とも言えない小屋のような住居が、ギシギシと押し合うようにして並んでいた。そこは、同じ日本とは思えない程の酷いありさまだった。すえた何とも言えない嫌な匂いがして、昼間でもどこか薄暗く、道路脇のどぶ川にはヘドロのような汚水が絶えず流れていた。家の中からは時々、不気味な喚き声や怒鳴り声が聞こえてくる」

「・・・」

「そこに住む人間は子どもから大人まで、みな薄汚れていた。見た目がどうとかっていうだけじゃない。その目の奥の、そこに滲み出る人生の痕跡が暗く薄汚れていた」

「彼女はその地区のさらに奥にある、一つのバラック小屋の前に立ち止まった。そして、その中に入って行った。俺には彼女がなぜこんなところに来て、そして、その中に入って行くのか全く分らなかった。俺はとりあえずその小屋の前で彼女を待った。二時間ぐらいだったか、彼女は出て来た。出て来た彼女は最初俺の姿に驚いていた。しかし、すぐに全てを悟ったのだろう。小さく笑った。俺は彼女に近づいた。そして、俺たちは元来た道を二人で歩き始めた。俺たちはずっと黙って歩いた」

「しばらく経ってからだった。彼女が重い口を開いた。そして、全てを語った・・」

「・・・」

 熊さんはそこで、一旦口を閉ざした。

「彼女は部落の出身だったんだ」

「・・・」

「俺なんかよりも、もっと壮絶な差別を小さい時から受けていたんだ。なんの言われもない理不尽な差別を・・。彼女は全然悪くない。何にも悪いことはしていない。ただ生まれた場所がそういうところだったというそれだけだ。たったそれだけ。それだけで、学校でも、地域社会でも、職場でも、ありとあらゆるところでいじめられ、バカにされ、蔑まれ、理不尽な扱いを受け続けた」

「・・・」

「でも、それでも彼女は凛として生きていた」

「・・・」

「彼女がAVに出ているのだって、家族を養うためだったんだ。その家族だってろくでもない家族なんだよ。彼女にそんな仕事させて、自分たちは働きもせず、酒やギャンブルやってるようなそんな本当にろくでも奴らなんだよ。特に父親なんか酷くてさ。酔って暴れると、子どもたちを柱に縛り付けて鞭で撃つような、ほんとろくでもない奴なんだよ。その挙句酒の飲み過ぎで、高血圧で脳内出血おこして半身不随で寝たきりだよ」

「だけど、そんな父親をさ、彼女は一生懸命介護するんだよ。面倒見るんだよ。その汚物で汚れた汚い体をさ、濡れたタオルで丁寧に拭いていくんだよ」

「・・・」

「俺はその時初めて彼女が「私でいいの」といった意味が分かったんだ。その時の彼女の思いが分かったんだ」

「・・・」

「その時、俺は何としてもこの人を守ろうと思った。この人を絶対に幸せにしようと決めたんだ。俺は彼女のことをますます好きになったよ。好きになったなんてもんじゃない。ほんとに尊敬したよ。すごい人だって」

「・・・」

 熊さんの目には薄っすらと涙が浮かんでいた。

「どうだ」

 しばらくして、笑いながら熊さんが私を見た。

「なんかすごい話聞いちゃったな」

 私も微笑み返す。

「だろう」

「うん」

 本当にすごい話を聞いたと思った。

「はははっ」

「なんで急に笑うんだよ」

「だって」

「なんだよ」

「だって、最初熊さんが私の悩み聞くって言ったのに、気付いたら熊さんの一代記を私が聞いてるんだもん」

「ははは、そういえばそうだな」

 熊さんも頭をかきながら笑った。

 でも、嬉しかった。今の私にそんな大事な話をしてくれたその意味が、とても嬉しかった。

 

 その日の帰り道だった。

「あっ」

 雑踏の中で見慣た丸い後頭部を見つけた。それは、よりちゃんだった。間違いなくよりちゃんだった。私は慌てて、後ろから駆け寄った。

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