第29話 どうしようもないもの

「なあ、なんで俺は俺なんだ」

 雅男は、天上を見つめたまま、今までにない静かな声で呟くように言った。

「なあ、なんで俺は俺なんだ。俺はこんな俺なんだ。なんで俺はあんな家に生まれて、あんなカスみたいなやつの息子なんだ。なんで俺は人殺しなんだ。なんで俺はお前の兄さんを殺した人間なんだ?なんでだ?」

「・・・」

 私はそんな雅男の言葉を静かに聞いていた。そう、どうして私は私なのだろう・・。

「そうじゃない人生だってあっただろ。もっとちゃんとした、ちゃんとした人間に生まれることだってあったはずだろ。普通のさ。普通の家に生まれて、普通の父さんがいて、普通の母さんがいて、普通に学校通って、そんななんでもない普通の人生だってあっただろ。なんで、俺は俺なんだ。なんで俺はこんな俺なんだ」

 雅男は呻くように言った。

「・・・」

 私にも、もっと普通の人生があったのだろうか。あまりに目の前の生きることに一生懸命で、そんなことすら想像できないでいた。

「何の苦労もしてない奴が普通に何の苦労もなく生きているのに、なんで俺は、俺はこんなに苦しまなきゃならないんだ。なんで俺はこんな俺なんだ?なんでなんだよ。チクショウ」

 雅男は仰向けに寝たまま、床を思いっきり叩いた。

「雅男」

「チクショウ。チクショウ。チクショウ」

 雅男は何度も何度も床を殴った。雅男の拳から血が滴った。

「やめて、雅男やめて」

「クソぅ・・、うううっ」

 それでも雅男は殴り続けた。

 ――その日から、雅男は本当に何かが壊れてしまったみたいに、目の光を失った。


「おうっ、どうした。しょんべん漏らしたみてぇな顔して」

「どんな顔ですか」

 私は突如、隣りに立った大きな影を見上げる。

「悩み事だったら聞くぜ」

 熊さんだった。

「うん」

 熊さんはいつもの人懐っこい笑顔で、私の隣りに座った。

「なんか分からなくなっちゃった」

 空には大きな綿雲がふわふわと流れている。

「俺なんか分からないことだらけだよ」

 熊さんは真剣な表情で眉根を寄せる。

「はははっ」

「まあ、あんま難しく考えねぇことだな」

「うん、でも・・」

 やっぱりいろいろ考えてしまう。

「人間なんてなぁ、飯食ってクソして寝る。結局これだよ」

 熊さんは私の顔を覗き込む。

「はははっ、うん」

 熊さんのコミカルな表情と物言いに、思わず笑ってしまう。

「時々セックスしてさ、屁をこいて、それで人生おしまい。そんなもんだよ。結局はな」

「はははっ、シンプルですね」

「そうだよ。そんなもんだよ。人生なんて」

「そんなもんですか・・」

「うん」

 熊さんは断定的に大きく頷く。

「・・・」

 熊さんのその堂々とした言い方に、私もなんだかそんもんな気がしてきた。

「全く虚しいもんだよ。人生なんて」

 そう言って、頬杖をついてため息をつく熊さんに、私はまた笑ってしまった。

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