第27話 メビウスの輪

 苦しみから必死で逃れよう、逃れようとしているはずの私は、気付けばなぜかその中心に向かって歩いている。

 それはメビウスの輪。

 真っ黒な、濃霧のような影が私を覆っている。その中で自分の影を踏むことのできない苛立たしさに似たどうしょうもない関係性の流砂のごとく、私はずるずるとその得体のしれない渦に巻き込まれ、引き込まれていく。

 もがけばもがくほど増していく、その流れの勢いに、それでも私は必死にもがき抗う。しかし、それはどこまでもどこまでも底がなく、ゆっくりとゆっくりとそれでいて確実に地獄の底へと私は落ちていく・・。


 私がいつものように夜遅く部屋に帰ると、雅男はすでに酔いつぶれていた。

「雅男、もうお酒は飲まない方がいいよ」

 私は酔いつぶれて、机に突っ伏す雅男の肩に手を掛けた。するとその瞬間、雅男は突然ものすごい勢いで起き上がった。

「うるせぇ~、偉そうに俺に説教か」

 雅男が興奮した目で私を睨む。 

「違う、そうじゃなくて・・」

 私は驚いて雅男を見返す。

「じゃあ、どういうことなんだよ」

 雅男の目は完全にすわっていた。

「ああっ、どういうことなんだよ」

「・・・」

 こうなってしまった雅男に言葉は通じなかった。

 バシンッ

 雅男は私の頬を張った。

「・・・」

 私は放心したまま張られた頬を抑えた。雅男は抑えきれない激しい怒りに震えながら、私を見据えるように睨みつけている。

「ああ?」

 雅男はなおも私に挑むように睨みつける。私はもうどうしていいのか分からなかった。私は泣いた。

「泣くな。余計癇に障る」

 雅男は叫び、さらに私を殴った。私は無抵抗に、打ちひしがれるしかなかった。

「泣くな」

 雅男がさらに叫び、私を殴る。

「泣くなっつってんだろ」

 私はその声をどこか遠くに聞きながら、ただ無抵抗に泣くことしかできない自分に泣いた。


「・・・」

 気付くと、顔面蒼白の雅男が立っている。部屋は静まり返っていた。私はゆっくりと顔を上げ、雅男を見上げた。

「・・・」

 雅男は口を利くことも、動くこともできず、ただ立ち尽くしていた。自分がしてしまったことの現実に、その目の前の現実に愕然とし、雅男は無力に崩れ落ちた。

「どうして俺たちこうなっちまったんだろうな。どうして・・」

 雅男は両手で前髪をぐしゃぐしゃにして頭を抱えた。

「どうして俺は人殺しで、お前はその被害者の妹で・・、なんで・・、どうしてこうなっちゃっちまったんだろうな・・」

「・・・」

 悲痛な声を発する雅男に、私は何も答えてあげられなかった。

「どうしてなんだろうな・・」

 雅男が悲しい目で私を見つめる。

「・・・」

 私にはやはり何も言えなかった。

「もっと違う出会い方だってあったはずなんだよ。もっとちゃんとしたさ。大学でさ。先輩後輩みたいな関係でさ。お互いテニスサークルかなんか入っちゃってさ、そこで二人は出会うんだよ。二人は幸せなんだよ。心の底から幸せなんだよ。なんの問題もなくただ幸せなんだよ。ただただ幸せなんだよ。世の中にこんな不幸があるなんて、欠片も知らないんだよ。そんな人間がいるなんて想像すらもしていないんだよ」

 雅男は夢を語る子どもみたいな、夢見心地な目で天上を見つめていた。

「俺たちはそこで、恋に落ちるんだ。当たり前みたいにさ。もちろんなんの問題もなくさ。もちろん色んな、普通の恋人が経験するようなさ、ちょっとしたケンカとか、障害とかはあるんだけど、でも、それも二人で乗り越えていくんだよ」

 そこで雅男が私を見た。

「だって、二人は幸せだから」

「雅男・・」

「俺たち・・、幸せなんだよ」

 雅男は何とも言えない悲しい目で私を見ていた。

「当たり前みたいに幸せなんだよ」

 雅男のその目があまりに悲し気で、見つめ返しているだけで私は心が張り裂けそうだった。

「どうして、どうして、こうなっちまったんだろうな。俺たち・・」

 再び天井を見上げた雅男の目からポロポロと大粒の涙が流れ落ちた。

「どうして・・」

「もういい、もういいよ。雅男」 

 私は雅男が壊れてしまわないように、必死で抱き締めた。

「俺たち・・、俺たち・・」

 私は必死で雅男を抱きしめた。

「私・・」

 なんだか惨めだった。私たちが堪らなく惨めだった。

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