第26話 本当の絶望
私という世界の安定は、複雑な要素の繋がりと絡まりの絶妙なバランスの流れで生きている。
私の中心にある何か、大切な何かが壊れた時、その世界は、一変する。世界はもう、あの世界ではなく・・、今までゆるぎなかった世界の確たる芯がその固さを失い、私という存在の根底は宛てのない不安を彷徨い始める。
一度壊れた世界は戻らない。一度壊れた自然がもう二度と元には戻らないように、秩序は、もう、その絶妙なバランスと安定を、取り戻すことはない。
以前感じていたあの世界は、もう決して私の前に現れることはない・・。
「その目だ。その目が・・」
雅男は睨みつけるように、そのすわった目で私を見据えた。
「その目が、俺を・・」
雅男は私を張り倒した。雅男は今日も狂ったように暴れ、叫び狂っていた。
「その目なんだよ」
雅男は怒鳴った。言っていることが支離滅裂で私は何も理解できなかった。
「なんとか言え、この野郎」
そう言って、また雅男は私を殴った。その勢いで私は床につっぷす形にひざまづいた。
「殴ればいいわ。気の済むまで、雅男の気の済むまで殴ればいいわ」
私は伏せた顔を上げ、雅男をキッと睨み返し叫んだ。雅男は大きく息をつきながら、私を睨み据えていた。
「殴りなさいよ」
私もいつになく興奮していた。
「うをぉ~あああ~」
雅男は私に飛びかかってきた。
「なんでそんなに・・、そんなに・・」
私は雅男にしがみついた。
「うるせぇ~」
雅男は叫び、私を振りほどこうと力いっぱいもがいた。
「俺は・・」
「もうやめて、こんなこと・・」
私は必死に雅男にしがみついた。
「お前に、お前に何が分かる」
雅男は、私を振りほどくと、私の髪の毛を掴んで引きずり回した。
「お前に何が分かる。ああ?」
雅男は私に顔を思いっきり近づけ、目の前で、思いっきり怒鳴った。そのむき出された目は血走り、正気を完全に失っていた。
「俺の苦しみの何が分かるっていうんだ」
髪を鷲掴みにしたまま、雅男は私を力の限り壁に投げつけた。
「うううっ」
私は壁にぶつかり、そのまま壁沿いにずり落ちるようにしてしゃがみこんだ。
「はあ、はあ・・・」
雅男はそこで我に返り、その場にへたり込むように座り込んだ。
「・・・」
突然訪れた静寂が逆になんだか怖かった。私たちはうつむき、何も語らなかった。動くことも立ち上がることもできず、ただありもしない奇跡の何かを待つしかなかった。
「俺が何に絶望したかって、そんな暴力とか虐待とかなんとかじゃない・・」
憔悴した雅男は、苦しみに切り刻まれるように、言葉を一つ一つ区切りながら力なく語りだした。静かな時間が少しずつ動き出す。
「・・・」
私は顔を上げ、そんな雅男を見た。
「俺が本当に絶望したのは・・、俺があいつに似てるってことなんだ。俺はあいつにそっくりなんだ。顔も性格も。あいつそっくりなんだよ」
雅男は顔を両手で覆った。
「俺はあいつの息子なんだ・・、あの最低な奴の息子なんだよ」
雅男は頭を抱えた。震える全身は、その全てで泣いているようだった。
「・・どうしようもなくあいつの息子なんだよ・・」
消え入りそうな声の中に、雅男の抱える悲しみと絶望が溢れていた。
「あいつの血が・・」
雅男は両の手の平を広げそれを見つめた。
「あいつの血が俺の中にも流れているんだ」
その表情は絶対に打ち砕けない絶望の塊に打ちひしがれていた。
「俺は俺は・・」
雅男は自分の手の平を見つめ震えた。
「うううっ、俺は俺は・・」
「雅男・・」
「俺は呪われてるんだ。あいつの血に、あいつのDNAに、あいつの魂に呪われてるんだ。あいつは俺そのものなんだ。だから、俺はあいつからは絶対に逃げられないんだ・・」
雅男は頭を抱え震えた。
「俺はあいつなんだよ・・」
「違う、雅男は雅男だよ」
私は叫んだ。
「俺はあいつそのもなんだよ」
しかし、その声が雅男の心に届くことはなかった。
雅男は絶望の奥深くどこまでもどこまでも深く、私の手をすり抜けて、どこまでもどこまでも落ちていってしまった。
「なんでこう、今どきのかわいい子はみんなAVに出ちゃうかねぇ」
仕事が終わり、いつもの階段に座る私の隣りで、熊さんが悲嘆にくれるように呟いた。
「えっ?」
突然そんなことを言い出す熊さんを私は見た。
「汁男優やってて言えた義理じゃないけどさ、さっぱり分からんよ。今どきの子はさ。もっといろいろやれることはあるだろうにさ」
「う~ん」
そう言われても困る。
「やっぱ悲しいよね男としては」
「なんでですか」
私は熊さんを見た。
「やっぱり、男ってのは女に幻想を抱くんだよ。幻想に恋して幻想に憧れるんだ。それによって生きてるって言ってもいいくらいだ。それがさ、そういう現実魅せられちゃうとさ、やっぱ男としては辛いわけさ」
「でも、男の人のための物でしょ。そもそも」
「そこが男の複雑なところなんだ」
「はあ・・」
私には熊さんの言っていることが分からなかった。
「まあ、女には分からんわ」
「はあ」
確かにまったく分からなかった。
「男ってのはさ。こう見えても複雑で繊細なんだ」
「はあ」
熊さんの口から繊細という言葉を聞くとは思わなかった。
「ナイーブなんだよ」
「ぷっ、ふふふっ」
「なんで笑うんだよ」
「だって」
「俺が繊細じゃおかしいか」
「おかしい」
私はこらえきれず思いっきり笑った。
「う~ん」
「ははははっ」
困った顔をして呻く熊さんが更に面白かった。
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