第25話 生きる意味

 半分開いた無惨にたるむカーテンの隙間から、赤い満月が滅茶苦茶になった部屋を覗くように見つめていた。闇夜に怪しく浮かぶその丸い光は、妙に私を不安にさせた。

「・・・」

 その淡く赤い光は、不気味な何かを暗示していた。


「真面目で勤勉なサラリーマン。それがあいつの世間一般の顔だった。確かにあいつは勤勉でまじめでよく働いていた。会社での評価も高かった。それに頭も良かった・・」

 暴れ疲れた雅男は今日も一人語りだした。

「でも、普段は気の小さな奴なんだ。世間の目を気にして、こそこそ生きている小心な奴なんだ。会社でも、卑屈に上司や同僚の笑いなんかとってるそんな奴なんだ。でも、あいつは家では、無口でいつもピリピリしていて、そして、酒を飲むと、気が大きくなって・・」

 雅男の顔は苦渋に歪んだ。

「暴れた。突然。俺たちを大人の力で、圧倒的な力で、ねじ伏せた・・」

 雅男は拳を血が出るほど握りしめ、すぐ脇の床を思いっきり叩いた。

「クソッ」

 床がものすごい音を立て震えた。

「クソッ」

 雅男は大きな声で叫んだ。力いっぱい握られた拳は恐ろしいほどに震えていた。

「あいつは完全にイカレてた。頭がおかしいんだ」

 雅男は大きな口角泡を飛ばし、吐き捨てるように言った。

「イカレてんだよ」

 雅男はもう一度、床を思いっきり叩いた。真っ赤に充血したその目の奥には、恐ろしいほどの怒りと憎しみが宿っていた。

「でも、弟だけは、弟だけは俺は守りたかった。弟だけは・・」

 雅男は震え、目に涙をためた。

「・・・」

「俺より七つ下で、いつも俺の背中に隠れてた。俺しかいなかったんだ。あいつには・・、あいつには俺しか・・」

 雅男は口の周りに筋が浮かぶほど歯を食いしばり震えた。

「でも、死んだ。かんたんに・・、虫けらみたいに・・、あっさり死んじまった。弟はまだ小学生だったんだ・・。まだ・・」

 雅男は悔しさに打ちひしがれ、どうしようもないやるせなさに懸命に耐えていた。

「クラスでも一番のちびだった。ろくに飯も食わせてもらってなかったから、成長が遅れていたんだ。着ている服もボロだったし、痩せて小さいから、よくクラスの同級生にもいじめられていた。あいつは家にも学校にも居場所がなかったんだ・・」

 雅男の目にたまった涙がスーッと流れ落ちた。

「いつも青白い顔をして、怯えた顔をしていた。でも、すごく気のやさしい奴だったんだ。虫も殺せないようなそんな奴だったんだ。いじめられても自分が悪いんだって、そんなことを言う奴だったんだ。短い人生の中で悪いことなんて何もしていない。本当に欠片もしていない。本当にいい奴だったんだ」

 雅男は涙をぽろぽろ落とした。

「それなのに・・こんなことがあっていいのかよ」

 雅男は呟くように言った。

「こんなことがあっていいのかよ。あいつは何も悪いことなんかしてないんだぞ。なんにも。なんにも。なのに、それなのに、どこに行っても殴られていじめられて、家でも殴られて・・、そして、人生の喜びも何も知らずに死んじまった。そんなことがあっていいのかよ」

 そして、雅男は大きく叫んだ。

「あいつの人生はいったいなんだったんだ。生まれてから死ぬまで、殴られ、蹴られて、いじめられて、バカにされて、それで人生おしまい。人生の何の楽しみも幸福も喜びも、なんにも知らずに死んでいった。風邪をひいた時に食べられるヨーグルトとプリンだけがほんのささやかな喜びだったんだ」

 雅男は震え泣いた。

「あいつの生まれて来た意味は何だったんだよ。生きたことの意味は何だったんだよ。なんで、なんであいつは生まれて来たんだよ・・」

 雅男は泣いた。子供みたいに泣いた。

「そんなのってないだろ。いくら何でもひど過ぎるだろ。なんなんだよ。そんな人生って。酷過ぎるだろ。なんだったんだよ、あいつの人生は。あいつの存在ってなんだったんだよ。訳分かんねぇよ」

 雅男は小さな体で必死に弟を守ろうとしていた。それが痛いほどに伝わってきた。

「神様がいるなら、答えてくれよ。あいつの人生って何だったんだよ」

 雅男は泣いた。決して答えのない、全てのやるせなさと、理不尽を背負って一人生きてきた苦しさにのたうつように雅男は泣いた。

「俺は守ってやれなかった」

 ひとしきり泣いた後、雅男は呟くよう言った。

「俺はあいつを守ってやれなかった」

「雅男・・」

 雅男は、完全に憔悴した目で床の一点を見つめていた。私はそんな雅男に近寄り、その小さくなった体を包み込むように抱きしめた。

「俺がもし・・、もし・・、俺は・・、俺は・・」

「雅男は悪くないよ。雅男は悪くない」

 私は必死に全身で雅男を抱きしめた。

「俺が殺しちまったんだ。結局、悪いのは俺なんだ。俺が悪いんだ。ううううっ」

 雅男は唸り声をあげながら、頭を無茶苦茶にかきむしった。

「そんなことないよ。そんなことないよ」

 私は必死で雅男を抱きしめた。

「俺が・・、俺が・・」

 しかし、私の言葉も届かず、雅男は一人、自分の中の絶望へと落ちて行ってしまった。


 真っ青に晴れ渡った空に、一羽のトンビがのんびりと舞っている。私なんかの人生の事情とは全く関係なく、世界はのどかで平和だった。

 ふと、背後で人影がして、振り返ると、誰かが立っていた。

「あっ、お久しぶりです」

 詩織さんだった。詩織さんは私を見下ろすように見ながら、小さく微笑んだ。なんだか、詩織さんを見るのは久しぶりだった。

「だいぶ良くなったみたいですね」

 詩織さんの顔に痛々しくついていたあざや腫れも大分引いて、ギブスもや包帯もシンプルなものに変わっていた。

「うん」

 小さくうなずきながら、詩織さんは私の隣りに座った。

「ここお気に入りなんだね」

「ええ、なんだか・・」

 本当はここは詩織さんのお気に入りの場所だった。

「どうしてたんですか」

「うん、さすがにずっと家で休んでたわ。あれじゃ、さすがに外を出歩くわけにもいかないしね」

 詩織さんは笑った。

「みんなじろじろ見るんだもん」

「そうでしょうね・・」

「やっぱ落ち着くはここ」

 詩織さんは空を見上げた。

「今日は、どうしたんですか」

「うん、ちょっと打ち合わせ」

「仕事復帰するんですか」

「うん、そうしようかと思って。もう別にもうこの仕事続ける理由もないんだけどね。なんかね」

 詩織さんは小さく笑った。

「なんか平和だね」

「はい」

 私たちはしばし、ボケーっと、心地よい陽気を感じながら、平和な青空を何の気なしに眺めた。大きな綿雲が右から左にゆっくりと流れていく。心の中はぐちゃぐちゃなはずなのに、それを見ているとなんだか、そんなことも、その他のもろもろの嫌なことも、どうでもいいような気がした。

「あいつに出会う前」

「えっ」

 ふいに詩織さんが口を開いた。

「夫が待っていた」

「えっ!」

「私が刑務所を出たらそこに彼が立っていた」

 詩織さんが遠い目をする。

「もう、昔の面影も無いくらい、苦労がにじみ出た姿で立っているの。地獄を見たんだなって一瞬で分かった。あのかっこよかった、苦労なんか微塵もしたことが無い、洗練された気品もカッコよさも余裕も、そういう何か努力じゃ絶対身につかないような育ちみたいなものが完全に消えて、やつれ果てていた。ものすごい苦労したんだなって、一瞬で分かった・・」

 詩織さんの口元には何とも言えない微笑みが浮かんでいた。

「そんな彼が立っていた。立っているはずの無い場所に立っていた」

「・・・」

「そして彼は言った」

 詩織さんはそこで感慨深くしばし黙った。

「「お前を今も愛している」って。「お前を許す」って・・・、そう言ったの」

 詩織さんの目は今にも泣きそうなほど潤んだ。

「最初意味が分からなかった。何を言っているのか分からなかった。でも、本当だった。目を見ても、目の奥を見ても。彼は私を愛していた。私を許していた。本当だった。本当に愛していた。本当に許していた。それは本当だった。だから私は・・・」

「・・・」

「私はそれが罪だと思った。それが私の罪。人を殺し、たくさんの人を傷つけてしまった私の罪。彼の目の純真さが私の罪だと思った」

「・・・」

「例え相手がどんな人間であったとしても、私を理不尽に傷つけた人間であったとしても、絶対に許せない奴だったとしても、私は人を殺してしまった。その事に対して刑務所なんか何の贖罪にもならない。私はその時知ったの」

 そこで詩織さんは遠くを見つめ、黙った。涙が詩織さんの滑らかな頬を一筋流れ落ちる。

「・・・」

 詩織さんは今も一人で背負っている。もうおろしてもいい罪を今も一人背負い続けている。私は思った。

 その時、ふわりとしたやわらかい風が通り過ぎ、詩織さんの長いきれいな髪を揺らした。

「ねえ、焼肉食べに行かない」

 突然、詩織さんは私に笑顔を向けた。

「焼肉を食べてスタミナをつけるのよ」

 詩織さんは明るく言った。

「はい」

 私は笑顔で答えた。

「やっぱ、肉よね。ケガを治すには肉よ。肉を食べて早く体治さなきゃ。血よ。血が必要だわ」

「そうですね」

 私と詩織さんは笑い合った。

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