第22話 詩織さんの話・その2
「雅男・・」
私は雅男のことを考えていた。最近、いつも気づくと雅男のことを考えている。どうしたらいいのか、どうしてあげたらいいのか・・、私はそんな答えの無い問いを繰り返し考えていた――。
「やっぱりいた」
突然背後から声がして私は振り返った。
「なんかメグちゃんがいる気がしたんだ」
詩織さんだった。私はまたいつもの撮影所の階段に座っていた。
「ど、どうしたんですか!」
詩織さんは見るからに痛々しい松葉づえ姿だった。しかも顔はコブやあざだらけ、全身包帯だらけだった。振り返った私はびっくりして、目を剥いて詩織さんを二度見した。
「これ食べて」
しかし、そんなことは全くつゆほどもおくびに出さず落ち着いた表情の詩織さんは、その松葉杖をつく方の左手にぶらさげた白いビニール袋に入ったタッパーを私に差し出した。
「えっ・・、あ、はい・・」
私は、それどころじゃない気がしたが、手を伸ばしそれを詩織さんの手から受け取った。
「あっ、ありがとうございます」
何だろうとタッパーの蓋を開けると、ヨモギのいい香りがふわっと広がった。
「どうしたんですか。これ」
それは草団子だった。
「作ったの」
「詩織さんがですか」
「うん」
詩織さんはゆっくりとうなづいた。
「毎年春になると作るんだ」
「そうなんですか」
「うん、その辺の緑色に色付けしただけのまがいもんじゃないよ。ヨモギは全部、近所の野っぱらで摘んできた本物だよ」
「へぇ~」
確かに改めて見ると、何か違う感じがする。
「食べて」
「はい」
私は早速、指で一つ摘まんだ。輝くような粒あんがたっぷりとお餅を包んでいる
「おいしい~」
一口大に小さくまとまったお餅を一つ口に入れると、何とも言えないヨモギの香りとあんの甘さが口の中に広がり、今までにない感動が私を包んだ。
「ほんとにおいしい」
私は驚いて詩織さんを見た。あんの甘さもマイルドで丁寧な繊細さがあった。
「あんも豆から炊いてるからね」
「そうなんですか。へぇ~」
私は改めて光り輝くあんにくるまれたお餅を見つめた。
「もう死んじゃったけど、私のおばあちゃんが春になるとよく作ってくれたんだ。これだけは、なんか食べたくなって、毎年作るの。すごくめんどくさいんだけど」
「ほんとにおいしいです」
「そう」
詩織さんは嬉しそうに微笑んだ。
「あいつもこれだけはうまいってうなってたわ」
詩織さんは私の隣りにしんどそうにゆっくりと座り込むと呟くように言った。
「・・・」
私はその横顔を黙って見つめた。
「気持ちいい」
今日もよく晴れた空の下、撮影所の建物の間に心地よい春風が流れていた。詩織さんはしばらく黙って、その風に一人浸っていた。
「とうとう捨てられたわ」
詩織さんが独り言のように言った。私は詩織さんを再び見つめた。詩織さんの目はどこか遠くを見ていた。
「例のあの彼氏ですか・・」
私が恐る恐る訊くと、詩織さんはゆっくりと頷いた。
「それにしてもすごいケガですね・・」
改めてみる詩織さんの顔は、左目は痛々しいほど紫色に大きく腫れあがり、これがお岩さんかというような状態で、それ以外もあちこちが腫れ上がりあざだらけ、唇は切れ、鼻は膨らみ、頬には大きな擦り傷もあった。全身は上から下まで包帯とギブスに覆われ、右手はギブスを三角巾で吊るし、左足もギブスに松葉づえだった。しかし、そんな姿とは対照的に、詩織さんのその表情にはどこか清々しさが漂っていた。
「去って行く彼に追いすがったら、原チャリで五百メートル引きずられたわ」
「五百メートルですか・・」
詩織さんはそんなアクロバティックな人では全然なかった。
「左足と右腕が複雑骨折。肋骨もヒビが入ってるって」
詩織さんはゆっくりと、口角を上げ笑った。今までもあざや傷を負って現場に現れたことは何度もあったが、これほど酷いのはさすがに初めてだった。
「今朝新聞見たら、デカデカと載ってたわ」
詩織さんは少し自嘲気味に笑った。
「でも、愛してやったわ。あんなダメ男、ここまで愛せる奴はいないってくらい。ざまぁみろ」
ニコッと笑った詩織さんの前歯は上の二本が飛び飛びに無くなっていた。
「これじゃ、撮影は無理ね」
「は、はい、というかそれどころじゃ・・」
「たばこくれる?」
「あ、はい」
詩織さんにたばこを差し出すと、詩織さんは慣れた手つきでそれをくわえ、それに私が火をつけた。
「ふーっ」
「詩織さん、たばこ吸うんですね。前も吸ってたけど・・、その前は吸ってなかった」
「うん。妊娠してたから・・、やめてたんだ」
「えっ」
「でも、それも流れちゃった・・」
「・・・」
そう言った詩織さんの目の奥は悲しみを通り越した、何か晴れやかなものを宿していた。
「今まで散々な目にあったけど、本当に終わったわね」
詩織さんはゆっくりとたばこの煙を吐いた。その煙はゆっくりと広がりながらどこまでも澄みきった青い空へと立ち上っていった。
「本当に終わったわ・・」
「・・・」
詩織さんはそれを、目で追っていった。それは何かをやり遂げた人の目だった。
「ふふふっ、愛し抜いてやったわ。私はやったのよ」
詩織さんはそう言って一人笑った。そう笑う詩織さんの目には、凄みすら滲んでいた。
「私、やったでしょ?」
詩織さんは私を強く見つめた。
「は、はい・・」
私は詩織さんの迫力に思わずそう答えていた。
「私はやったのよ・・」
詩織さんは誰に言っているのか一人呟いた。
「・・・」
私はそんな詩織さんの何とも言えない横顔を見つめた。
「私の田舎にね」
「はい?」
「家の近所だった。そこにおばあさんと中学生位かな、男の子がいたの」
詩織さんは、しばらく黙って空を眺めていた後、急に話を変え語りだした。
「その二人はね。真冬に、うちの周りは一面田んぼだらけなんだけど、その土手の脇にある石の上に座って二人でコンビニのお弁当食べてるの。私の田舎の冬はとても寒いの。日中でも氷点下の日があるくらい。そんな寒風吹きすさぶ中、ふたりはコンビニのお弁当を食べてるの」
詩織さんの声のトーンが、さっきまでとは違い別人のようにゆったりとした落ち着いたものに変わっていた。
「男の子はね、かなり重度の知的障害がある感じだった。いつも紺色の同じジャージをはいてた。冬なのに上はトレーナーだけ。おばあさんは七十は超えてる感じで、真っ黒に日焼けしていつも手押し車を押してた」
「・・・」
私は黙って詩織さんの話を聞いていた。
「噂では、噂だけど、本当のところは分からないんだけど、その子はなんかお金持ちの家の子だったらしいの。でも、知的障害があってそれで両親が辛く当たって、それで、おばあさんが私が育てるって、それを見かねてその子を連れて家を飛び出したらしいわ。田舎の噂話だから本当かどうか分からないけど」
「・・・」
「その、いつも座っている石の後ろに畑があって、その奥になんか掘っ立て小屋みたいな、納屋みたいな、物置みたいな建物があってそこで寝てるって噂だった。もちろん人が住めるようなとこじゃなかった・・」
詩織さんは、遠くを見つめながらゆっくりと語った。
「そういうの、見てて辛いじゃない」
ふいに詩織さんは涙を落した。
「なんか子供心にも見てて辛かった。でも、どうすることもできなかった。今なら話しかけたり何かできるかもしれないけど、当時はまだ子供だったし、自分のことで精いっぱいだった」
「・・・」
「自分はなんて、嫌な奴なんだろうって思った。家があって、いつも温かいご飯が食べられて、温かい布団で眠れて。両親がいて、やさしいおばあちゃんがいた。自分は恵まれてる。すぐ近くに困っている人がいるのに、私はそれを知っているのに、私は温かいご飯を食べて、温かい布団で眠っている。お風呂にも入って、温かい部屋でテレビを見て。その人たちのためには何もしないで・・」
詩織さんは感情に震えていた。
「お小遣いだってあった、月三千円。それだけであの人たちを少しは何か楽にさせることができたはず」
「でも、私は何もしなかった。そうしたいとは思った。でもしなかった。何もしなかった。見て見ぬふりをして私はその場をいつも通り過ぎるだけだった」
「・・・」
「どうしていいか分からなかった。ただ苦しくて、私は・・、恵まれている私は・・、私の頭の中で自分を切り刻んで土に埋めていた」
「・・・」
「私は恵まれている。ものすごく恵まれている。私はなんて嫌な奴なんだろうって思った。私は本当に嫌な奴だって思った」
詩織さんは、泣いた。膝の間に顔をうずめ泣いた。
「私は最低の人間・・」
「そんな・・」
「私は・・、私は・・」
「詩織さん・・」
「私は最低の人間なんだわ。私は最低・・」
詩織さんは更に号泣した。
「私なんて、いじめられて当然なんだわ」
「そんなこと・・」
「私は最低・・」
「・・・、詩織さん・・」
そんな詩織さんの姿が堪らなく切なくて私は胸が痛んだ。なんで、なんで、そこまで自分を責めるのだろう。
「今でも、時々、あの二人は、今どうしてるんだろうって、思い出すことがあるんだ」
一しきり泣くと詩織さんは顔を上げた。
「・・・」
「あの二人、今どうしてるんだろう・・」
詩織さんは泣き腫らした目で真っ青な空を見上げ呟いた。
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